2010年3月11日 (木)

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iPhoneからココログエディタにて投稿。

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友人から送信された水戸の『桜田門外ノ変』映画屋外セット。雪は、実は白砂なんだそうで。

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2009年12月 3日 (木)

【坂の上の雲】第1回補足

書き忘れた事。

食べ物の話なんですが、真之がいっつも炒り豆をポリポリ食べていました。原作でも彼の炒り豆好きは紹介されていましたが、ドラマではやけに強調してますね。この炒り豆、クライマックスの日本海海戦でも登場する筈で、決戦前の緊迫した場面を解きほぐす演出がされるに一票。

で、食べ物といえば、で真之たちの故郷・松山つながりでご紹介。

http://www.matsuyamaage.co.jp/

松山あげ。ふわふわでこくのある油揚げです。我が家ではこれが無くては始まらないほどの人気。うどん、味噌汁、おひたし等など、何に使っても絶妙ですぞ。なお、回し者には非ず(笑)。

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2009年11月30日 (月)

【坂の上の雲】第1回「少年の国」

司馬遼太郎先生の原作は昔何度も読み返したものですが、最後に読破したのはいつの事だったでしょうか。今回、NHKがスペシャル大河として制作したものを、内容を思い出しながら観ています。

第1回を観て思った事。「NHK、やればできるじゃん」(笑)。
「天地人」のひどさは、ついに途中でブログも放棄してしまうほどでしたが、「坂の上の雲」はまったく別次元。「司馬史観」と揶揄して嫌う向きもいらっしゃいますが、やはり原作の「見せ方(読ませ方)のうまさが、映像化されても生きています。恥ずかしながら1時間半、涙腺がゆるみっぱなしだったのは、「天地人」の薄っぺらで何の裏付けもない「義」や「愛」とは異なり、時代の熱気や人々の純朴さ(むろん、盲目的に時代の「正義」を肯定しているという危ういものではありますが)がしっかりと説明できていたからでしょう。特に、兄弟の父・秋山久敬が、職掌上知りうる学費不要の大阪師範学校の件や、旧松山藩の奨学金制度を息子たちに教えたり利用させたりは頑としてしなかった点は、公私を厳密に区別する士族、明治人の気骨としてもっと前面に出していいエピソードでは無かったでしょうか。まぁ、その頃明治政府の上層部は汚吏貪官の巣となっていますから整合がとれないし、それでなくても過去の背任横領事件などでミソをつけたまんまのNHKとしてはサラリと流したいのかも知れませんが。

ともあれ、これなら3年間しっかりと楽しみに見続けられそうです。

技術的には、こちらで紹介されていた「カラーグレーディング」という処理による映像の色彩調整が見事でしたね、屋内の埃っぽい黄色強調とか、大原観山の葬列のシーンでのシアン一色の中での菜の花のイエローとか(この場面は司馬氏へのオマージュかと少しニヤリ)。

ところで、好古が大阪に行ったのが明治8年、真之が上京したのが明治16年。正岡子規の学友・夏目漱石(ドラマでは小澤征悦が演じるらしいですね)が『坊ちゃん』を発表するのが明治39年。このドラマでの松山人の描かれ方と『坊ちゃん』とのそれは大きく乖離していますが(笑)、やはり田舎ならではの閉塞感というのはあるんでしょうね、秀才たちはそういう息苦しさからも脱出したくて「花のお江戸」「末は博士か大臣か」を目指したのではないでしょうか。あと、真之上京の年であれば大学予備門英語教師の高橋是清はまだ数えで30歳。もみあげに白いものの混じった西田敏行の是清はいくらなんでも可哀想かも(それを言ったら冒頭の秋山家の両親も老けすぎですが(笑))。

秋山兄弟の寄宿先、旗本佐久間家の屋敷は現在の千代田区五番町。ドラマ中でも佐久間家老女のよしさん(篤姫で「女の道は一本道!」ってやってた佐々木すみ江さん)が「来る途中の三宅坂に立派な建物が見えたでしょう」と言っていた陸軍大学校は永田町にあり、この年4月に参謀本部の跡地に開設されたばかりです。つまり真之の上京はそれ以降。一方、好古がかつて在籍した士官学校は市ヶ谷にありました。五番町からですと、皇居外堀を挟んでほぼ真北ですね。現在は自衛隊の駐屯所ですが、当時も今も市ヶ谷台の高地にあるので、よく見える場所です。

最後の方、巡洋艦「筑紫」がイギリスから納品される場面では、本来この艦がチリ発注のもので、契約のゴタゴタで日本が横合いから買い取ったというようなうんちくが原作にはあった筈です。写真を見ると、ちっちゃいちっちゃい船ですねぇ、「砲艦」程度の。

以上、つらつらととりとめもなく書き連ねましたが、雑感という事で。

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2009年11月 1日 (日)

「新発見、大坂図屏風の謎 ~オーストリアの古城に眠る太閤秀吉の夢」

標記の番組をBS-hiで放送していました。全然知らずに家人に教えられ、慌てて視聴。面白くて録画も再度視聴。

…ただ、BGMを濫用しすぎ。いっつも音が流れてる状態というのは見ていて結構疲れるものです。

「なんで大坂城天守閣の壁が白く描かれてるのかな~」と以前から不審だったんですが、番組によるとこの絵が描かれたのは寛永時代(三代将軍家光の頃)ではないかとの事。それならば、当時の徳川城郭における白壁に影響されたんだと考えても無理はないわけですが、慶長期の作製とする説も見たような覚えがあるので、一体どっちなんだ、と。まぁ、あとは今後の研究に期待という事でしょうね。

「おそらく日本でもっとも古い『うどん屋が描かれた絵』だ」っていう部分が「大阪人、そんな昔っからうどん好きか!」って感じで爆笑物でした。

今大阪城天守閣でこれの複製品が展示された特別展「豊臣期大坂図屏風」を開催中ですので、近日観覧して来たいと思います。

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2009年9月 4日 (金)

「歴史秘話ヒストリア」真田幸村、アンコール放送

8/26にNHK総合で放送された標記番組が好評だそうで、先日((9/2)BSと総合で再放送されたのに続き、またBSの「アンコール」枠で再放送されるとのご連絡を戴きました。

9/6のBS2「あなたのアンコール」10:00~11:54

この内10:02頃~10:45頃が「真田幸村」の回の分との事ですので、見逃しされた方はどうぞ。

小生の老眼ぶりが見られますよ(笑←本当は落ち込んでます)。

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2009年8月21日 (金)

「歴史秘話ヒストリア」

忘れた頃に大河の悪口を垂れ流している当ブログですが、久しぶりに垂れ流したついでにここで告知を。

悪口対象のNHKさんの番組、NHK総合「歴史秘話ヒストリア」8/26放送回に、小生出演します(笑)。番組情報はコチラ。22:00~22:43の放送です。

真田幸村の回なんですが、「悪口書いてる人間でも良いんですか」と尋ねたら「良い」って笑ってお答え戴きましたので、拙宅で申し訳無さそうに、しかし中身の無い事をしゃべっています。ばっさりカットされて一瞬しか映らないかも知れませんが、お気が向かれましたら醜態をご高覧戴ければ幸甚です。内容的には、結構幸村や傾奇者に関する拙著や拙文をあちこち参照して戴いているようです。

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【天地人】 第十八回「義の戦士たち」

 下手すると周回遅れになりそうな(笑)。「15回も前の放送の内容なんて覚えてねーよ!」的な向きのために、あらすじはコチラ

 越中魚津城も落城間近。東越後の新発田重家の乱、信濃・西上野方面からも織田の圧力が強まり、上杉家は気息奄々。緊張感漂う春日山城で「御家老」と呼ばれる青くさい兼続。違和感バリバリですが、そんな兼続を訪れてくる男が。この男、志駄義秀は母親が直江景綱の娘という事ですから、兼続とは義理の兄弟(兼続の母を景綱の妹とする説をとれば義理のいとこでもある)「義理の叔父甥」と(兼続の母を景綱の妹とする説をとれば「いとこの子」でもある)にあたります。その義秀が与板から持参したのは、お船の文と髪。いきなりラブラブですねぇ、はしゃいでますねぇ、お船さん。亡き信綱がかわいそう(-人-)

 一方の織田側では、相変わらず無能な兼続を捕まえて信長と初音が「上杉には彼の者がおります」「惜しいのぉ」などと無理矢理持ち上げるシュールな会話を繰り広げています。こんな兼続、惜しくもなんとも無いでしょ(笑)。中国戦線では備中高松城水攻めの最中の羽柴秀吉が信長に手柄を譲って保身を図ろうと援軍を要請する事に。「信長殿」という宛名の書き方だけでもう保身どころか逆さ磔級の失態なのですが(^ー^;)。このあたりはお笑い番組級に笑いをとって来ますね、さすがNHKさん。

 春日山城に、上野では滝川一益が、信濃では森長可が、それぞれ越後に向けて兵を動かしているという報せが入ります。これを聞いた兼続は「織田勢にあえて隙を見せ、領内深く入り込んだ所を討とう」と周囲に表明。この作戦の発案者でなければ魚津城を守る吉江宗信に降伏開城を納得させられない、とばかりに城内への使者役を買って出ました。

ところが、「上杉の侍として意地を貫く」と開城を拒否する吉江たち。ついに兼続は「これは殿の御意でごさいます」と極めつけの卑劣発言。嘘つけ、あんたが主唱者でしょうがよ(-"-;)

あげくのはて、「一緒に死にます」と言ってもダメだしされ、相変わらずビービー泣いて諸将の後ろ姿を眺めるだけ。「我が力及ばず!」なんて景勝に見栄を切っていましたが、なんの事は無い、策に酔い策に溺れたみっともない頭でっかちにしか見えません。
 

 景勝・兼続以下が悶え苦しんでいる「織田方が三方から攻め込み、景勝はそれを先読みしている」というドラマの設定は『北陸七国志』に「(柴田勝家が)四万八千余騎を相従え、滝川左近将監一益、森勝蔵長一(長可)と牒じ合わせ、越中に発向し、魚津の城を攻め動かす」「森勝蔵長一、大田切より、景勝の居城・春日山へ、乱入の由聞こえしかば、上杉景勝大いに驚き、天神山を引き払い、春日山に帰陣せらる」とあるように軍記物を参照したと思われます。『北国太平記』には滝川一益が三国峠で上杉勢に敗れたという記述もありますが、信長研究の大家・谷口克広氏は『織田信長家臣人名辞典』で「そんな余裕があったであろうか」と史実かどうかを疑問視しています。
 

 実際に上杉軍がどういう行動を採ったのかというと、5月1日、八方ふさがりの状態に絶望した景勝は佐竹義重に「六十余州を越後一国で相支え、一戦を遂げ、滅亡する事、死後の思い出」と情けない内容の手紙を書いています。実際、5月6日に安部政吉らが魚津城から「願皆寺で寝返りが発生した」と景勝に報告しますが、織田側の調略はそういうローカルなものではなく前年に亡くなっている景勝側近の河田長親にまで及んでいました。長親はこの工作に靡く事は無かったものの、景勝はもう見限られつつあったと言っても過言ではないでしょう。そんな中5月15日に景勝は魚津城に臨む天神山城に出陣しますが、前田利家らと小競り合いをしただけで、結果として5月26日に越後に撤退し、6月3日魚津は落城します。宗信以下、耳たぶに穴を開けて名を書いた木札を結びつけ、首になっても上杉勢の名誉を保とうとして死んで行ったそうです。

 こうして上杉家は越中における橋頭堡を失いましたが、これに似た事例を思い出しませんか?そうです、高松城水攻めと高天神城玉砕です。毛利軍は高松城籠城の清水宗治以下を見捨てる事ができず、最後は安国寺恵瓊が独断で宗治に切腹開城を説得しました。少なくともそういう体裁をとりました。それは、毛利家のために頑張っている国人領主の宗治を見捨てれば毛利家は盟主としての地位を失う、という自覚からです。反対に武田勝頼は岡部元信らが籠もる高天神城を見捨て、それを見た各地の国人領主が次々と武田家を見限って滅亡させました。勝頼は臆病とのそしりを怖れて東上野に兵を出したりしましたが、諸人は核心を見逃さなかったんですね。上杉軍も、魚津城を見捨てた段階で滅亡は既に決まっていたのです。

このドラマで兼続がとった「魚津に注目を集め、魚津の面々が全滅を覚悟しても予定通り撤退して越後に侵入した織田軍を撃つ」なんていう作戦は、目前で起こった勝頼の自滅から何も学んでいない下の下の愚策という事になります。本能寺の変が起こらず、信長が健在なら景勝と兼続は何もできず、周囲にも見放されて無残な最期を迎える事になったでしょうね、本当にこのドラマの兼続クンは漫画か何かのようにラッキーです。

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2009年7月 8日 (水)

【天地人】 第十七回「直江兼続誕生」

 ずいぶん間が空いてしまったので、もう途中は無かった事にしてはしょってしまえぇ、とかも考えたのですが、そうするとやはりはしょった分こちらも筋の展開や伏線(そういうモノがあればですが)を押さえられなくなるので、急がば回れで録画見ながら埋めていく事にしました。ゴルフの石川遼くんのモットーは「急がば回るな」だそうですが、凡人たるもの、ここはオーソドックスに(笑)。

第17回のあらすじはコチラ

 天正9年(1581)、兼続は信綱の非業の最期を受けて直江家に入り、お船の夫となります。信綱の死の経緯の描写については後段にて。それにしても、信綱→「後を頼む」→お船、信綱→「上杉を頼む」→兼続、という「遺言」を、それぞれ反芻しながら物思いにふけるお船と兼続。それがなぜふたりが結婚を受諾するという結論に結びつくのかは甚だ不審です。「ふたり、結婚しちゃいなYo」って言ったのならいざ知らず。それにしても、兼続の婿入りの打診を受けたお船が一瞬明るい表情になったと思ったのは小生だけではない筈(笑)。

 明けて天正10年(1582)、いよいよ運命の年です。同盟国となった武田家が織田信長の圧迫を受け、越後上杉家としてはこれを赴援するかどうかで会議は大もめ。兼続は一応「揚北衆にも信長の工作が」と言ってますが、御館の乱後の越後内乱を無視して「これにて一件落着」的な描き方をしたばっかりに、上杉が武田救援どころの騒ぎではない事を雪のせいにするしかなく、信綱が殺されたのも国人の兼続への嫉妬のような卑小な理由に矮小化せざるを得なくなって、まるで小さな会社のオフィスでの喧嘩のような扱い方をされていました。そうではなく、内乱を起こせないように国人衆に対して統制を強化し、戦力を削ごうとした景勝側の施策への反発という本来の理由をはっきり押し出した方がスケール感も出て来るのにな、と思います。それにしても葛山信吾の安部政吉も、なんでこんな役立たずの兼続にこんなに入れあげるんですかね、気持ち悪いったらありゃしない。

 天正10年(1582)2月、ついに織田軍は武田領に津波のように侵攻し、20日、勝頼は景勝に書状を発します。「これ以上の心配は無用」という内容だとナレーションは解説していましたが、「お心安かるべく候」という文言はそういう「見栄」から出たものではなく、「防備については出来るだけ堅固にしたので、その点は安心して欲しい」という感じのやや気弱なものだと思います。攻勢ではなく防御の姿勢を明確にしているのですから。その上で、「外国の覚え、この節に候間、二千も三千も早々指し立てらるに於いては、一段欣悦たるべく候」と、他国への宣伝効果もあるから2,000でも3,000でも援軍を寄越して欲しいと訴えます。3月2日にも勝頼は越後国境信濃海津城の将らを通じて「貴国より早々御加勢申し請け、(中略)片時も早々御加勢候の様に」と切迫した状況下で援軍を懇願しますが、これに対し景勝は3月7日付けで「甲府備え是非無き次第に候」と甲斐陥落は避けられないと述べた上で勝頼の保護と武田家存続については「思い詰め」た(決心した)と書き送っていますから、すでに大名武田氏の滅亡は計算に入れていました。その上で「猶、直江与六申すべく候」と、この件の申次役として兼続も景勝と意見を一にしていた事を明らかにしています。
 それはそれとして、ドラマでは上条政繁(ついに登場、で良かったんでしょうか。御館の乱で出すべきだったのにねぇ)を大将に2,500の兵を出動させた、と言っていましたが、これは何を典拠にしたのか、現段階で小生にはわかりません。政繁はこの時期新発田重家との和平交渉に忙殺されている筈なんですが。『上杉家御年譜』では、3月6日に長井丹波守を主将とする十将が信濃長沼に出動した事になっています。ただ、この出動はどうも北信濃に上杉家の存在をアピールする為だったような気がしますね、直後に景勝は海津などの者たちを「引き付けた」つまり味方にしたのは手柄だ、というような褒め言葉を家臣に発していた筈ですから。つまり、上杉の「義」はまぁ最低限、体裁の為の「義」だった訳です。

 ところで武田滅亡後に明智光秀が信長に「遅い」と折檻されていましたが、何が「遅い」のか、皆目分かりません。きっと年末の最終回になっても分からないままなんでしょう。困ったものです。この仕打ちにキレた光秀が徳川家康に対して信長についていけるか、信長のせいで嫡男の信康と正室の築山殿を殺さねばならなかった、あなたが、と謀反をそそのかすような言葉を投げかけていましたが、全く危機管理能力も無い光秀像と、なおかつ旧態依然たる信康事件の解釈を押しつけられていささかならずゲンナリ気分です。そんな気分を救ったのは、城を追われる覚悟はできている、と言う菊に対し景勝が「そなたはわしの妻じゃ!夫としてこれからもわしが守って参る」とぎこちなく抱きしめていた場面でした。ここだけは良いシーンでしたね…、シミジミ。無骨で不器用な景勝のグッジョブでした。

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2009年4月20日 (月)

【天地人】 第十六回「信玄の娘」

 前回の放送の録画を再度視聴。見落としてたんですが、北条高広が暗殺されてたんですね、この部分、異常な萎えによる集中力低下で気付かなかったようです(笑)。実際には死んだのは子の景広なんですが、一緒くたにされてしまったんでしょうか、お粗末な話ですね。それに気付かなかった小生もお粗末ですが(笑)。
 また、遠山康光の不気味な笑みは、あれはひょっとして道満丸や北条高広の死をすべて彼の「陰謀」だった事にしようという脚本家の「陰謀」だったんでしょうか。でも、百歩譲って康光が「陰謀家」でこのあとも生き残ったとしても、すでに敗戦が目の前にある状況で道満丸を人質に出してでも講和が成立すれば、間近な雪解け後にふたたび北条からの援軍を期待する事もできた筈。武田に対する牽制にもなって、再起を十分に期す事ができる計算になると思うのですが。この計算はおかしいですかね?

 さて、今回。うじうじと悩む兼続に対し「そちを家老に加えようと思っていた」と景勝。前髪残した家老なんてあるもんか(大笑)。それに対し「勝手な事をしたのはこの私なのに」。よく判ってるじゃないですか、兼続。

 まぁそんな漫才はさておき、景勝は菊姫と結婚します。彼女だけは結婚後ちゃんと前髪姿ではなくなっていました。景勝、兼続、見習えよ。そういえば、『甲陽軍鑑』では彼女は景勝との結婚以前、長島願証寺の5代目佐尭の子だったかと婚約していた、という説明がありましたが、このドラマでは割愛されたようです。新田次郎の『武田勝頼』ではこの設定でかなりドラマチックな悲劇を創出していたような記憶がありますが。
 菊姫の輿入れは10月20日。これをもって武田勝頼はそれまでの建前の中立姿勢から景虎の死を受けて正式に景勝との攻守同盟に転じた事になります。
 刃をもって迫る菊姫に対し、「武田氏を守る事は約束できぬ」と景勝。政治の本音の部分としてはまさにその通りですが、これはどうなんでしょう。当時の武田氏は、景勝との連携によって北条氏とは断交したものの、長篠戦の痛手も癒え、織田との講和を画策し、東上野や伊豆にも軍を働かせています。どちらかといえば余裕のあるのは武田の方でしょう。実際、翌天正8年12月には景勝が勝頼に「来春越中表出馬に於いては、御助勢の事」と越中への出陣に際しての武田からの援軍を期待する書状を送っていますから、景勝の方が菊姫に「上杉を守るためよろしく」と頭を下げなければならないのではないでしょうか。

 そんな状況を織田信長がくるみをもてあそびながら評論していましたが、懐かしいですね、くるみ。昔「月影兵庫」で近衞十四郎さんがニギニギグリグリされてたのを思い出します。一方、浜松城で景勝の婚儀の報告を受けるのが近衞十四郎の子の松方弘樹さん演じる徳川家康。どう見ても信長より9歳下には見えません(^ー^;)。
 そしてやはり御館の乱後の越後の紛争はナレーションで一瞬にして終了(T_T)。徹底的に合戦排除。小芝居より合戦入れて下さい。いかにも朝の連ドラチックでちょっと前の少女マンガって感じな雪割草を囲む小芝居より合戦を。それにしても紅葉とか彼岸花とか雪割草とか、つくづく戦国ドラマらしからぬ綺麗綺麗な画面ばかりが目につくのは、あからさまにターゲットとなる視聴者層を想定しているのでしょうね、あからさますぎて綺麗というより安っぽくて下品なのは困りものですが。

 最後に家老の座に推された兼続。直江信綱・吉江宗信といったうるさ型の先任家老たちはいつの間にやら兼続を高く評価(笑)。信綱に至っては「共にお家のために尽くそうぞ、困った時は力になる!」と完全に兼続シンパに。直後に起こる信綱遭難を盛り上げる伏線としてはあまりにも幼稚です。逆に最後まで兼続を嫌ったのに、死の時には「上杉家を頼む」と言葉を遺す方が漢(おとこ)だ、と思うのですが。
 樋口家は上田長尾家の家臣の家ですから、兼続はそのままでは上杉家の家老職には就けません。そのために空席となった直江家家督を継いで資格を得るわけですが、その順序が逆になったのはやはりお船とのロマンスをロマンスとして成立させるために「家老にするために直江家を継がせた」という政治臭を除くため?

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2009年4月13日 (月)

【天地人】 第十五回「御館落城」

 いよいよグダグダな御館の乱も大詰めです。吉江宗信が「景勝側では逃げ出す雑兵どもが後を断たないようです」と景勝に上申。実際、天正7年(1579)2月13日には「館、巣城ばかり」といった状況になり「日々落ち来たる者」たちが「力無く沙汰の限り」だと御館内の様子を語っています(『登坂清忠他宛景勝書状』)
 結局上杉憲政は最後まで登場せず。御館の主であり、景虎の大義名分の源泉(前関東管領にして謙信の義父)だった憲政を完全に無視した事によって(あと、揚北などの国人衆対立も描かず)、本ドラマにおける御館の乱はニセ名分を振りかざす景勝側とそれを否定する景虎側という子供の喧嘩のようなスケールの小さい殴り合いに終わったのでした。

 大勢が決したと悟った景虎は、息子を人質として景勝に渡し降伏しようと決意。ですがなんと息子の道満丸は途中で襲殺されてしまいます。これについては後で述べましょう。あげくの果て、遠山康光まで景虎を見限り、「北条へ戻ります」と去って行きました。これは康光の名誉にかかわる問題です。
 史実では康光は景虎とともに自害。北条氏康の「康」を頂戴しその姉妹を娶って景虎の義理の伯父でもあった康光が、景虎の最期にあたって後見の任務を放棄し景虎を見捨てて離脱する事などあり得ないのです。最後に振り返ってわずかに笑みを浮かべていた康光でしたが、実際には自害していて今後は登場する事もない筈なのに何の意味もなさない無駄な演出だったと思います。

 景虎のもとに駆けつけた兼続は、道満丸の死を、どこの誰ともわからない「景虎様の降伏を良しとしない者」によって殺されたと弁解します。本当はこの道満丸を伴って春日山城に赴き、講和を斡旋しようとしたのが憲政だったのですが、おそらくドラマの制作者はここで憲政を殺すと「降伏を良しとしない」だけで謙信の義父まで殺す者が景勝サイドに居てはまずいと判断して最初から憲政を出さなかったのでしょうか。しかし、憲政の存在の抹殺も、道満丸殺害の犯人を「景勝派の中の和平反対の何者か」としたのも、モノを書く者にとっては一番安易な逃げ方だと思います。本当の「義」とは、信じる人や道のために時には心を鬼にして邪魔者を排除し、その責めは自分で負う覚悟ではないでしょうか。それさえも出来ず、道満丸や憲政の死から景勝や兼続を守る生温かい「ゆとり」シナリオでは「義」を兼続らに発揮させる事さえできませんよ、ね。それどころか、死にゆく景虎に接して兼続また泣いてるし。「二度と泣かない」と宣言してから何度泣いてる事か。泣くのがコヤツの「義」なのでしょうか。脚本家氏は以後の兼続の人格を規定する事になる筈だったこんな重要なセリフを書いた事すらも覚えていられないのでしょうか。

 先日友人たちと会う機会がありましたが、やはりこの大河を見て「これは史実だ」と思っている人が多いようです。「だって、NHKだし、最後には史跡紹介して本編と関連づけて説明してるし」との事。最後に「このドラマはフィクションであり登場する人物・団体は実在のものとは一切関係ありません」とキャプションを入れるべきかも知れませんね、今回の大河に関しては。それぐらい、「酷い」です。「功名が辻」のねつ造ぶりがワーストかと思っていたら、さらにうわてが来るとは思ってもみませんでした。

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