2009年8月21日 (金)

【天地人】 第十八回「義の戦士たち」

 下手すると周回遅れになりそうな(笑)。「15回も前の放送の内容なんて覚えてねーよ!」的な向きのために、あらすじはコチラ

 越中魚津城も落城間近。東越後の新発田重家の乱、信濃・西上野方面からも織田の圧力が強まり、上杉家は気息奄々。緊張感漂う春日山城で「御家老」と呼ばれる青くさい兼続。違和感バリバリですが、そんな兼続を訪れてくる男が。この男、志駄義秀は母親が直江景綱の娘という事ですから、兼続とは義理の兄弟(兼続の母を景綱の妹とする説をとれば義理のいとこでもある)「義理の叔父甥」と(兼続の母を景綱の妹とする説をとれば「いとこの子」でもある)にあたります。その義秀が与板から持参したのは、お船の文と髪。いきなりラブラブですねぇ、はしゃいでますねぇ、お船さん。亡き信綱がかわいそう(-人-)

 一方の織田側では、相変わらず無能な兼続を捕まえて信長と初音が「上杉には彼の者がおります」「惜しいのぉ」などと無理矢理持ち上げるシュールな会話を繰り広げています。こんな兼続、惜しくもなんとも無いでしょ(笑)。中国戦線では備中高松城水攻めの最中の羽柴秀吉が信長に手柄を譲って保身を図ろうと援軍を要請する事に。「信長殿」という宛名の書き方だけでもう保身どころか逆さ磔級の失態なのですが(^ー^;)。このあたりはお笑い番組級に笑いをとって来ますね、さすがNHKさん。

 春日山城に、上野では滝川一益が、信濃では森長可が、それぞれ越後に向けて兵を動かしているという報せが入ります。これを聞いた兼続は「織田勢にあえて隙を見せ、領内深く入り込んだ所を討とう」と周囲に表明。この作戦の発案者でなければ魚津城を守る吉江宗信に降伏開城を納得させられない、とばかりに城内への使者役を買って出ました。

ところが、「上杉の侍として意地を貫く」と開城を拒否する吉江たち。ついに兼続は「これは殿の御意でごさいます」と極めつけの卑劣発言。嘘つけ、あんたが主唱者でしょうがよ(-"-;)

あげくのはて、「一緒に死にます」と言ってもダメだしされ、相変わらずビービー泣いて諸将の後ろ姿を眺めるだけ。「我が力及ばず!」なんて景勝に見栄を切っていましたが、なんの事は無い、策に酔い策に溺れたみっともない頭でっかちにしか見えません。
 

 景勝・兼続以下が悶え苦しんでいる「織田方が三方から攻め込み、景勝はそれを先読みしている」というドラマの設定は『北陸七国志』に「(柴田勝家が)四万八千余騎を相従え、滝川左近将監一益、森勝蔵長一(長可)と牒じ合わせ、越中に発向し、魚津の城を攻め動かす」「森勝蔵長一、大田切より、景勝の居城・春日山へ、乱入の由聞こえしかば、上杉景勝大いに驚き、天神山を引き払い、春日山に帰陣せらる」とあるように軍記物を参照したと思われます。『北国太平記』には滝川一益が三国峠で上杉勢に敗れたという記述もありますが、信長研究の大家・谷口克広氏は『織田信長家臣人名辞典』で「そんな余裕があったであろうか」と史実かどうかを疑問視しています。
 

 実際に上杉軍がどういう行動を採ったのかというと、5月1日、八方ふさがりの状態に絶望した景勝は佐竹義重に「六十余州を越後一国で相支え、一戦を遂げ、滅亡する事、死後の思い出」と情けない内容の手紙を書いています。実際、5月6日に安部政吉らが魚津城から「願皆寺で寝返りが発生した」と景勝に報告しますが、織田側の調略はそういうローカルなものではなく前年に亡くなっている景勝側近の河田長親にまで及んでいました。長親はこの工作に靡く事は無かったものの、景勝はもう見限られつつあったと言っても過言ではないでしょう。そんな中5月15日に景勝は魚津城に臨む天神山城に出陣しますが、前田利家らと小競り合いをしただけで、結果として5月26日に越後に撤退し、6月3日魚津は落城します。宗信以下、耳たぶに穴を開けて名を書いた木札を結びつけ、首になっても上杉勢の名誉を保とうとして死んで行ったそうです。

 こうして上杉家は越中における橋頭堡を失いましたが、これに似た事例を思い出しませんか?そうです、高松城水攻めと高天神城玉砕です。毛利軍は高松城籠城の清水宗治以下を見捨てる事ができず、最後は安国寺恵瓊が独断で宗治に切腹開城を説得しました。少なくともそういう体裁をとりました。それは、毛利家のために頑張っている国人領主の宗治を見捨てれば毛利家は盟主としての地位を失う、という自覚からです。反対に武田勝頼は岡部元信らが籠もる高天神城を見捨て、それを見た各地の国人領主が次々と武田家を見限って滅亡させました。勝頼は臆病とのそしりを怖れて東上野に兵を出したりしましたが、諸人は核心を見逃さなかったんですね。上杉軍も、魚津城を見捨てた段階で滅亡は既に決まっていたのです。

このドラマで兼続がとった「魚津に注目を集め、魚津の面々が全滅を覚悟しても予定通り撤退して越後に侵入した織田軍を撃つ」なんていう作戦は、目前で起こった勝頼の自滅から何も学んでいない下の下の愚策という事になります。本能寺の変が起こらず、信長が健在なら景勝と兼続は何もできず、周囲にも見放されて無残な最期を迎える事になったでしょうね、本当にこのドラマの兼続クンは漫画か何かのようにラッキーです。

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2009年7月 8日 (水)

【天地人】 第十七回「直江兼続誕生」

 ずいぶん間が空いてしまったので、もう途中は無かった事にしてはしょってしまえぇ、とかも考えたのですが、そうするとやはりはしょった分こちらも筋の展開や伏線(そういうモノがあればですが)を押さえられなくなるので、急がば回れで録画見ながら埋めていく事にしました。ゴルフの石川遼くんのモットーは「急がば回るな」だそうですが、凡人たるもの、ここはオーソドックスに(笑)。

第17回のあらすじはコチラ

 天正9年(1581)、兼続は信綱の非業の最期を受けて直江家に入り、お船の夫となります。信綱の死の経緯の描写については後段にて。それにしても、信綱→「後を頼む」→お船、信綱→「上杉を頼む」→兼続、という「遺言」を、それぞれ反芻しながら物思いにふけるお船と兼続。それがなぜふたりが結婚を受諾するという結論に結びつくのかは甚だ不審です。「ふたり、結婚しちゃいなYo」って言ったのならいざ知らず。それにしても、兼続の婿入りの打診を受けたお船が一瞬明るい表情になったと思ったのは小生だけではない筈(笑)。

 明けて天正10年(1582)、いよいよ運命の年です。同盟国となった武田家が織田信長の圧迫を受け、越後上杉家としてはこれを赴援するかどうかで会議は大もめ。兼続は一応「揚北衆にも信長の工作が」と言ってますが、御館の乱後の越後内乱を無視して「これにて一件落着」的な描き方をしたばっかりに、上杉が武田救援どころの騒ぎではない事を雪のせいにするしかなく、信綱が殺されたのも国人の兼続への嫉妬のような卑小な理由に矮小化せざるを得なくなって、まるで小さな会社のオフィスでの喧嘩のような扱い方をされていました。そうではなく、内乱を起こせないように国人衆に対して統制を強化し、戦力を削ごうとした景勝側の施策への反発という本来の理由をはっきり押し出した方がスケール感も出て来るのにな、と思います。それにしても葛山信吾の安部政吉も、なんでこんな役立たずの兼続にこんなに入れあげるんですかね、気持ち悪いったらありゃしない。

 天正10年(1582)2月、ついに織田軍は武田領に津波のように侵攻し、20日、勝頼は景勝に書状を発します。「これ以上の心配は無用」という内容だとナレーションは解説していましたが、「お心安かるべく候」という文言はそういう「見栄」から出たものではなく、「防備については出来るだけ堅固にしたので、その点は安心して欲しい」という感じのやや気弱なものだと思います。攻勢ではなく防御の姿勢を明確にしているのですから。その上で、「外国の覚え、この節に候間、二千も三千も早々指し立てらるに於いては、一段欣悦たるべく候」と、他国への宣伝効果もあるから2,000でも3,000でも援軍を寄越して欲しいと訴えます。3月2日にも勝頼は越後国境信濃海津城の将らを通じて「貴国より早々御加勢申し請け、(中略)片時も早々御加勢候の様に」と切迫した状況下で援軍を懇願しますが、これに対し景勝は3月7日付けで「甲府備え是非無き次第に候」と甲斐陥落は避けられないと述べた上で勝頼の保護と武田家存続については「思い詰め」た(決心した)と書き送っていますから、すでに大名武田氏の滅亡は計算に入れていました。その上で「猶、直江与六申すべく候」と、この件の申次役として兼続も景勝と意見を一にしていた事を明らかにしています。
 それはそれとして、ドラマでは上条政繁(ついに登場、で良かったんでしょうか。御館の乱で出すべきだったのにねぇ)を大将に2,500の兵を出動させた、と言っていましたが、これは何を典拠にしたのか、現段階で小生にはわかりません。政繁はこの時期新発田重家との和平交渉に忙殺されている筈なんですが。『上杉家御年譜』では、3月6日に長井丹波守を主将とする十将が信濃長沼に出動した事になっています。ただ、この出動はどうも北信濃に上杉家の存在をアピールする為だったような気がしますね、直後に景勝は海津などの者たちを「引き付けた」つまり味方にしたのは手柄だ、というような褒め言葉を家臣に発していた筈ですから。つまり、上杉の「義」はまぁ最低限、体裁の為の「義」だった訳です。

 ところで武田滅亡後に明智光秀が信長に「遅い」と折檻されていましたが、何が「遅い」のか、皆目分かりません。きっと年末の最終回になっても分からないままなんでしょう。困ったものです。この仕打ちにキレた光秀が徳川家康に対して信長についていけるか、信長のせいで嫡男の信康と正室の築山殿を殺さねばならなかった、あなたが、と謀反をそそのかすような言葉を投げかけていましたが、全く危機管理能力も無い光秀像と、なおかつ旧態依然たる信康事件の解釈を押しつけられていささかならずゲンナリ気分です。そんな気分を救ったのは、城を追われる覚悟はできている、と言う菊に対し景勝が「そなたはわしの妻じゃ!夫としてこれからもわしが守って参る」とぎこちなく抱きしめていた場面でした。ここだけは良いシーンでしたね…、シミジミ。無骨で不器用な景勝のグッジョブでした。

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2009年6月29日 (月)

『伊達政宗』と『石田三成』

標題の書籍2点が刊行されております。

『新・歴史群像シリーズ19 伊達政宗 奥州より天下を睨む独眼龍』(学研)

Masamune

http://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA-19-%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97/dp/4056055572/ref=sr_1_10?ie=UTF8&s=books&qid=1246265793&sr=1-10

豊臣秀次事件に関して、従来語られていない一の台がらみの疑獄について触れ、政宗の切り抜け方を描かせて戴きました。あと、政宗と金、政宗と家族について。

『石田三成 復権!400年目の真実』(新人物往来社)

Mitsunari_2

http://www.amazon.co.jp/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90%E5%BE%A9%E6%A8%A9-400%E5%B9%B4%E7%9B%AE%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%88%A5%E5%86%8A%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E8%AA%AD%E6%9C%AC-44/dp/4404036442/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1246266435&sr=1-1

巻頭に大河『天地人』で変なヘアスタイルの(笑)三成を演じておられる俳優の小栗旬さんのインタビューあり。趣旨からして三成・兼続LOVEな本ではありますが、拙稿はなるべく突き放して書いたつもりです。関ヶ原の戦いでの家康挟撃計画がなぜ実現しなかったかについてちょっと珍しい視点で。

なにとぞよろしくお願い申し上げます。

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2009年4月20日 (月)

【天地人】 第十六回「信玄の娘」

 前回の放送の録画を再度視聴。見落としてたんですが、北条高広が暗殺されてたんですね、この部分、異常な萎えによる集中力低下で気付かなかったようです(笑)。実際には死んだのは子の景広なんですが、一緒くたにされてしまったんでしょうか、お粗末な話ですね。それに気付かなかった小生もお粗末ですが(笑)。
 また、遠山康光の不気味な笑みは、あれはひょっとして道満丸や北条高広の死をすべて彼の「陰謀」だった事にしようという脚本家の「陰謀」だったんでしょうか。でも、百歩譲って康光が「陰謀家」でこのあとも生き残ったとしても、すでに敗戦が目の前にある状況で道満丸を人質に出してでも講和が成立すれば、間近な雪解け後にふたたび北条からの援軍を期待する事もできた筈。武田に対する牽制にもなって、再起を十分に期す事ができる計算になると思うのですが。この計算はおかしいですかね?

 さて、今回。うじうじと悩む兼続に対し「そちを家老に加えようと思っていた」と景勝。前髪残した家老なんてあるもんか(大笑)。それに対し「勝手な事をしたのはこの私なのに」。よく判ってるじゃないですか、兼続。

 まぁそんな漫才はさておき、景勝は菊姫と結婚します。彼女だけは結婚後ちゃんと前髪姿ではなくなっていました。景勝、兼続、見習えよ。そういえば、『甲陽軍鑑』では彼女は景勝との結婚以前、長島願証寺の5代目佐尭の子だったかと婚約していた、という説明がありましたが、このドラマでは割愛されたようです。新田次郎の『武田勝頼』ではこの設定でかなりドラマチックな悲劇を創出していたような記憶がありますが。
 菊姫の輿入れは10月20日。これをもって武田勝頼はそれまでの建前の中立姿勢から景虎の死を受けて正式に景勝との攻守同盟に転じた事になります。
 刃をもって迫る菊姫に対し、「武田氏を守る事は約束できぬ」と景勝。政治の本音の部分としてはまさにその通りですが、これはどうなんでしょう。当時の武田氏は、景勝との連携によって北条氏とは断交したものの、長篠戦の痛手も癒え、織田との講和を画策し、東上野や伊豆にも軍を働かせています。どちらかといえば余裕のあるのは武田の方でしょう。実際、翌天正8年12月には景勝が勝頼に「来春越中表出馬に於いては、御助勢の事」と越中への出陣に際しての武田からの援軍を期待する書状を送っていますから、景勝の方が菊姫に「上杉を守るためよろしく」と頭を下げなければならないのではないでしょうか。

 そんな状況を織田信長がくるみをもてあそびながら評論していましたが、懐かしいですね、くるみ。昔「月影兵庫」で近衞十四郎さんがニギニギグリグリされてたのを思い出します。一方、浜松城で景勝の婚儀の報告を受けるのが近衞十四郎の子の松方弘樹さん演じる徳川家康。どう見ても信長より9歳下には見えません(^ー^;)。
 そしてやはり御館の乱後の越後の紛争はナレーションで一瞬にして終了(T_T)。徹底的に合戦排除。小芝居より合戦入れて下さい。いかにも朝の連ドラチックでちょっと前の少女マンガって感じな雪割草を囲む小芝居より合戦を。それにしても紅葉とか彼岸花とか雪割草とか、つくづく戦国ドラマらしからぬ綺麗綺麗な画面ばかりが目につくのは、あからさまにターゲットとなる視聴者層を想定しているのでしょうね、あからさますぎて綺麗というより安っぽくて下品なのは困りものですが。

 最後に家老の座に推された兼続。直江信綱・吉江宗信といったうるさ型の先任家老たちはいつの間にやら兼続を高く評価(笑)。信綱に至っては「共にお家のために尽くそうぞ、困った時は力になる!」と完全に兼続シンパに。直後に起こる信綱遭難を盛り上げる伏線としてはあまりにも幼稚です。逆に最後まで兼続を嫌ったのに、死の時には「上杉家を頼む」と言葉を遺す方が漢(おとこ)だ、と思うのですが。
 樋口家は上田長尾家の家臣の家ですから、兼続はそのままでは上杉家の家老職には就けません。そのために空席となった直江家家督を継いで資格を得るわけですが、その順序が逆になったのはやはりお船とのロマンスをロマンスとして成立させるために「家老にするために直江家を継がせた」という政治臭を除くため?

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2009年4月13日 (月)

【天地人】 第十五回「御館落城」

 いよいよグダグダな御館の乱も大詰めです。吉江宗信が「景勝側では逃げ出す雑兵どもが後を断たないようです」と景勝に上申。実際、天正7年(1579)2月13日には「館、巣城ばかり」といった状況になり「日々落ち来たる者」たちが「力無く沙汰の限り」だと御館内の様子を語っています(『登坂清忠他宛景勝書状』)
 結局上杉憲政は最後まで登場せず。御館の主であり、景虎の大義名分の源泉(前関東管領にして謙信の義父)だった憲政を完全に無視した事によって(あと、揚北などの国人衆対立も描かず)、本ドラマにおける御館の乱はニセ名分を振りかざす景勝側とそれを否定する景虎側という子供の喧嘩のようなスケールの小さい殴り合いに終わったのでした。

 大勢が決したと悟った景虎は、息子を人質として景勝に渡し降伏しようと決意。ですがなんと息子の道満丸は途中で襲殺されてしまいます。これについては後で述べましょう。あげくの果て、遠山康光まで景虎を見限り、「北条へ戻ります」と去って行きました。これは康光の名誉にかかわる問題です。
 史実では康光は景虎とともに自害。北条氏康の「康」を頂戴しその姉妹を娶って景虎の義理の伯父でもあった康光が、景虎の最期にあたって後見の任務を放棄し景虎を見捨てて離脱する事などあり得ないのです。最後に振り返ってわずかに笑みを浮かべていた康光でしたが、実際には自害していて今後は登場する事もない筈なのに何の意味もなさない無駄な演出だったと思います。

 景虎のもとに駆けつけた兼続は、道満丸の死を、どこの誰ともわからない「景虎様の降伏を良しとしない者」によって殺されたと弁解します。本当はこの道満丸を伴って春日山城に赴き、講和を斡旋しようとしたのが憲政だったのですが、おそらくドラマの制作者はここで憲政を殺すと「降伏を良しとしない」だけで謙信の義父まで殺す者が景勝サイドに居てはまずいと判断して最初から憲政を出さなかったのでしょうか。しかし、憲政の存在の抹殺も、道満丸殺害の犯人を「景勝派の中の和平反対の何者か」としたのも、モノを書く者にとっては一番安易な逃げ方だと思います。本当の「義」とは、信じる人や道のために時には心を鬼にして邪魔者を排除し、その責めは自分で負う覚悟ではないでしょうか。それさえも出来ず、道満丸や憲政の死から景勝や兼続を守る生温かい「ゆとり」シナリオでは「義」を兼続らに発揮させる事さえできませんよ、ね。それどころか、死にゆく景虎に接して兼続また泣いてるし。「二度と泣かない」と宣言してから何度泣いてる事か。泣くのがコヤツの「義」なのでしょうか。脚本家氏は以後の兼続の人格を規定する事になる筈だったこんな重要なセリフを書いた事すらも覚えていられないのでしょうか。

 先日友人たちと会う機会がありましたが、やはりこの大河を見て「これは史実だ」と思っている人が多いようです。「だって、NHKだし、最後には史跡紹介して本編と関連づけて説明してるし」との事。最後に「このドラマはフィクションであり登場する人物・団体は実在のものとは一切関係ありません」とキャプションを入れるべきかも知れませんね、今回の大河に関しては。それぐらい、「酷い」です。「功名が辻」のねつ造ぶりがワーストかと思っていたら、さらにうわてが来るとは思ってもみませんでした。

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2009年4月 9日 (木)

【天地人】 第十四回「黄金の盟約」

 そんなわけでスッカリほとぼりのさめた頃に感想をアップする第14回目分です。
冒頭から「武田が寝返れば形勢は逆転できる」とか言ってますが、武田は寝返ったわけではなくあくまで中立になっただけ。攻守同盟ではなく不戦同盟です。武田が戦線に参加しなくても、景虎側にはまだ北条の後援があり、しかも西方には織田の脅威も控えている中では、景勝側の外交面での不利さは変わりません。ただ、内戦面では景勝側に歩がある、というのがこの段階での状況でしょうか。
 武田勝頼はこのあと景勝と講和すると、景勝・景虎の二者を和解させようと仲介の労までとります。兼続は「味方につける」などと言ってましたが、実際には景勝は武田の参戦を止めるためだけに信濃北端と東上野の支配権を放棄する、と提案したわけです。ここのところ、ドラマには重大な作為があります。
 ドラマでは前回高坂昌信との「予備交渉」が描かれましたが、その後昌信は死去(5月7日)、武田は予備交渉の内容など知らずその後進軍を開始。兼続は頭を冷やすためにと幽閉されていました。一応武田軍の始動は5月中旬ですから、時間的な平仄はかろうじて取れているようです。
景勝側のジレンマが深まる中、仙洞院がお華に「謙信の遺言」の虚構をバラします。今更バラして何の得があるのか。意味が分かりません。「この事は景虎には言わない」というお華の心情は、母を庇いたいという事なのでしょうか。だとしたら、お華にも秘密を背負わせる仙洞院は見下げ果てた母親です。良心の呵責に苦しむのは彼女だけで十分。

 武田と交渉を、と動く兼続に対し甘糟景継ら小姓団は「上杉の誇りはどこに行った!」と詰りますが、黄金を与えるより、領地を割譲する方が上杉の名誉に差し障ると思うのですが。そのうえ、意味不明なトランス状態に入った景勝、なぜかコロリと兼続を赦します。そして、兼豊から頭を下げられた小姓団も、なぜか兼続を赦す。メデタシメデタシ。この辺の理屈は小生にはよく理解できませんでした。ゴメンで赦されるなら警察はいらん、みたいな。
 結局景勝は勝頼に黄金1万両を贈り、また勝頼の妹の華姫を娶るという条件で中立を保たせ、上杉―武田不戦同盟を結びますが、面白いのは勝頼との和睦の直後にその家臣の内藤昌月に青銅500疋を贈り、翌年4月には勝頼側近の長坂釣閑斎や跡部勝資から「約束の黄金50枚を早くよこせ」と催促されています(『上杉御年譜』)。なんかもう、義もへったくれもない買収攻勢だったんですね。

 それはともかく、信長って、初音とセットでないともう出ないんですかね?なんか、ワイドショーの評論家のようなコンビですね。あーでもない、こーでもないと虚しい論議を楽しんでるだけで。もう、初音が出てくるだけで激しく萎えるんですけど。

 最後に重箱の隅のオマケ。このドラマに限らず気になっているのが、「公」の使い方です。兼続も「上杉謙信公」「武田信玄公」と「公」を多用していますが、「公」はこの時代朝廷の大臣職経験者にしか用いられない筈で、謙信・信玄の場合は最終官職がそれぞれ従五位下(のち従二位を追贈)弾正少弼、と従四位下(のち従三位を追贈)、大膳大夫・信濃守ですから、追贈後に参議・三位以上への敬称である「卿」をつけるのが本来精々なんではないでしょうか、自信は無いですが。信長や秀吉、家康の場合はそれぞれ大臣を経験していますから、「信長公」「秀吉公」「家康公」で良いんですけど、ね。

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2009年3月29日 (日)

【天地人】 第十三回「潜入!武田の陣」

 冒頭、「溢れる若さで、戦国をCHANGE!」……はぁ、どうぞご自由に(苦笑)。何を変革しようとしていたというのかは知りませんが、「愛と義」なんて言ってる景勝-兼続ラインよりも「すべては騙しあいと思っておりまする」と仙桃院に吐露していた景虎の方がまともですね。どう考えてもこちらが勝ちそう(笑)。
 景虎が兄を利用しようと考えたか、兄に頼ろうとしたかは別として、『関八州古戦録』によれば景虎の兄・氏政は「江戸、葛西、川越、岩槻の勢一万五千の着到にて、碓井峠を越え、信濃路より押し入るべき評定にて勢揃え」と、信濃から碓井峠経由で越後に侵攻する動きを見せ、武田にも依頼して「武田衆二万五千余騎にて長沼、飯山辺まで出張せんとす」と信濃ルートでの両軍の侵攻が現実化し始めました。そんな中、信濃国境に位置する上田の守備が喫緊となったために景勝は栗林政頼・深沢利重の上田長尾家重臣たち防衛を命じます。これは史実で、ふたりは坂戸城に布陣して専守防衛から踏み出して上野国猿ヶ京にも出兵して北条方を牽制しました。5月21日、景勝はこれを賞して「猿京へ働き、凶徒打ち散らすの由、目出度く候」と深沢利重に書状を送っています。
 しかし、のち12月17日には「その地にその方両人武主として差し置き候処に、以前より度々の仕合わせに一度も相稼がず、大稚児のごとくにしてこれある由、ここもとにていずれも聞き届け候。いずれも朋輩ども悪口申し候」「惣別、以前両度樺の澤への働きの儀、その方両人采配を取り深々働きこれを成し稼ぎ候はば、落去眼前の由聞き届け候へども、いかに候てもれいしき油断に候間、いかんともならず候」と深沢・栗林の両名が積極的な戦闘をしないと叱り飛ばす内容の書状を書き、ふたりを督戦します。冬季に入り戦闘活動が鈍重になるのはやむを得ない気もしますが、その頃には形勢が景勝有利でしたから一気に事を決したかったのでしょうね、景勝は。こういう時、気の置けない老臣たちは格好の叱られ役となってしまいます。

 途中、なんか、ドレスで登場していた「真田の娘」がいたようですが、無視。

 状況悪化の中、「武田を味方に」という与七の独言に触発された兼続が武田との和議を提案、重臣たちから大反対を受けます。しかし、兼続は「勝頼には今動かねばならぬ裏がございます」と抗弁し、長篠大敗のあと家中を束ねるための目に見える成果が欲しい勝頼に対し信濃・上野譲渡を餌にしようと続け、吉江宗信からまで血を吐くような猛反対を受けていました。しかし、兼続は「越後の地と民を守るため」とこれを無視。ですが、兼続は肝心な事を忘れているようで。信濃・上野で上杉に与し、武田・北条に対する防波堤となって来た国人や上杉家臣の立場を彼はまるで無視しています。のちに勝頼が、高天神城を見殺しにして自滅の途をたどった事を考えれば、保身のために信濃・上野を見殺しにする事は愚策と言えるでしょう。もっとも、この時信濃の実行支配力はほとんど無く、上野についても厩橋城の北条高広が景虎側について景勝からすれば敵地といっても良い状況でしたから、実害は無かったとも言えますが、このドラマでは両方とも景勝による支配がなされているという前提で重臣たちが激怒していたわけですから、兼続の論は暴論です。

 もっとも、『上杉家御年譜』によれば、武田との講和を主張したのは水原親憲・斎藤朝信・新発田長敦・上条政繁といった重鎮たちで、兼続はまったく蚊帳の外だった筈。交渉ルートは武田側が跡部勝資・長坂釣閑斎→武田信豊→勝頼、景勝側が富永清兵衛・吉田十右衛門→新発田長敦ら上記の重臣連中→景勝という感じでした。景勝は勝頼に東上野割譲と黄金一万両の贈与をおこない、その家臣の長坂釣閑斎や跡部勝資にも成功報酬として黄金50枚(5000両)を与える約束をして和平交渉を進めました。一説には長坂・跡部のふたりには事前にも2000両ずつの賄賂を渡してあったともいいます。これについてはまた面白いエピソードを紹介できると思います。

 つまり、景勝-武田の講和は兼続の活躍によるものではなく、他の家臣たちの賄賂攻勢による交渉が成就したものでした。前回、桑取里を金ではなく「越後への愛」で説得した兼続の顔も、丸つぶれというわけです(笑)。

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2009年3月25日 (水)

【天地人】 第十二回「命がけの使者」

 前回も書きましたが、いきなりの「兵糧切れ」という絶対矛盾から入った今回。先週全否定した兵糧切れ問題に関してもうひとつ言えば、謙信が春の大動員出陣を控える中で死去した事から考えても、城内には大量の米が貯蔵されていた筈です。そんな「大嘘」でもつかなければ兼続に手柄を立てさせる事はできないのですから、制作者も大変ですね。

 で、兵糧は底を尽きかけるわ、北条の介入の可能性も高まるわで景勝方は恐慌状態。そんな中、兼続は「景虎も謙信の薫陶を受けた者だから、まさか越後を踏みにじるような事はないだろう」と惚けた事を言っておりました。一方御館では、景虎が「兄(北条氏政)は越後を乗っ取ろうというのだろう、そうはさせない。利用してやる」と北条軍を引き入れる気満々。兼続の言う「まさか」を犯す景虎を悪者にするために兼続に先のセリフを吐かせたのでしょうが、これでは「知恵者」「軍師」どころかバカのサンプルのようなのんき者にしか見えません。最初の土台が矛盾していると、どんどん矛盾が拡がってきてかえって面白いです(笑)。

 と、ここで登場するのが武田勝頼。信玄の息子で、武田家を率いています。「上杉を頼れ」は信玄の遺言、と重臣の高坂弾正が説いていましたが、これは『甲陽軍鑑』に出てくるエピソードです。

「輝虎(※謙信)と無事を仕り候へ。(中略)頼むとさへ言へば、首尾違うまじく候。(中略)必ず勝頼、謙信を執して頼むと申すべく候」

とありますが、この時期にこれを出してきてもあまり意味は無いですね。謙信すでに亡く、乱のキャスティングボートを握っているのはあくまで勝頼なのですから。武田が景虎側で動いたと聞いた景勝一同、「景虎は越後を武田に売るつもりか」。このあと、史実では景勝も自らを武田に売ったと言われても仕方ない事をしているんですけどねぇ。

 そんな中、食糧を確保するために兼続は城外の桑取の里へ。反対する景勝に兼続は「人は話し合えばわかり合えるものです」とニッコリ。景虎と決裂した経緯を見れば、兼続自身が一番このセリフにふさわしくないような。対する景勝は「兼続、おぬしを失うてまで生き延びるつもりはない」。全く高い能力を持たない兼続へのこの盲目的な信頼。衆道を理由にすればまだ納得もできますが、NHKがそういう設定を出してくる筈もなく、不自然さだけが募ります。

 案の定桑取で総スカンを喰う兼続。怒りにふるえて「おまえたちそれでも上杉の侍か!」と抗議していました。あれ?出発前に兼続をとめようとした連中は「相手は侍と違って百姓だから話し合いなどできない」と言ってませんでしたっけ?いつの間に侍に昇格したの?どうにもこういうつまらない矛盾がこの脚本には多すぎます。郷村を支配する国人(郷士)とその支配下の農民を「百姓」として侍と峻別する「侍と違って百姓」というセリフの方が間違ってるんですね。だいたい、元々「百姓」とは字面のごとく「すべての姓」すなわち全国民という意味の筈ですから、その中には武士も含まれています。その面でもここの部分はおかしいわけで。

 一時は命さえ危うかった兼続ですが、金を出した景虎よりより越後への愛を前面に出した兼続を桑取の長・斎京三郎右衛門の母が評価し、息子を説得して豹変させ、三郎右衛門は兼続に心酔し景勝側につく事を宣言しました。相変わらずお手盛りでご都合主義な展開ですね。まぁ、草笛光子さんのお元気そうな姿を拝見できたのでそれだけが価値のある回だったのかな(^ー^;)。なんだか草笛さん、以前の『秀吉』だったかの秀吉の母役の感じそのままでした。

 ちなみに、この桑取というのは実在の地名で、直江津市に併合され、さらに現在は上越市の一地域となっているそうです。桑取川が底を流れる桑取谷という山地の里で、ホントに当時兼続が期待したように米がいっぱいあるような水稲耕作地帯だったかは相当眉唾だと思いますが(この部分、想像ですのでもし違ってたらごめんなさい)。

 なお今回やっと上条政繁が登場しましたが、単なる武官のような描かれ方でした。

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2009年3月16日 (月)

【天地人】 第十一回「御館の乱」

 オープニングにドドンと出たのは「なんてったって本丸」の文字。景勝と景虎両陣営の春日山城本丸をめぐる対立をこう表現しているのですが、初っぱなから萎えますねぇ、もうテレビの前でヘナヘナヘナとへたりこんじゃう感じで。こういう、「軽~い」ノリで大向こうに親しみを持ってもらおうという考えも分からないわけじゃないんですが、それも本編の内容がしっかりしてないと視聴者に「なめられる」だけです。

 仙桃院のもとに赴いた兼続は、景虎に見とがめられてこう言います。
「景虎様に謀反の心はないが、春日山城本丸を奪おうとした事は明白」
「あるじ景勝に従うとご決心下さいませ」
分裂症気味でご都合主義全開の兼続。「もうたくさんじゃ」とダークサイド景虎が吠えるのも無理はありませぬ。
この場面でも遠山康光の老獪な表情や景虎の眼力に比べ、妻夫木兼続は顔に「必死」の迫力がありません。そういう顔ができない出来なんでしょうね、この俳優さんは。キャスティングミスという言葉すらもったいないほどの配役エラーです、この人に限った話ではありませんけど。思わず刀をふるう景虎の方を応援してしまいました。

 無事本丸に入った景勝に、上田衆が「金子(きんす)・武具も十分」「本丸を押さえている限り我らは負けない」と口々に喜びを語り、「兼続、ようやった」なんてのんきに笑ってましたが、一転最後の方では兼豊が「兵糧が足りない」と言っていました。
 まさかNHKは景勝側が本丸に籠城してるつもりで描いてるんでしょうか。そうなんでしょうね、息がつまるほど驚きです。本丸を押さえるっていうのは、そういう事じゃありません。兵糧を補給し、外部の味方と連絡し、敵の情報を収集して切り崩し工作を行える「連絡路」を確保するのは常識以前の常識です。景虎側が戦備整ったところの映像を見る限りではあれでは下から火攻めされればひとたまりもありません。包囲され、脱出路も無い中で焼き上げられて丸焦げの「義」ができあがるばかりです。ましてや、すでに景虎は御館に移っているわけですから、景勝側が「兵糧が」などと嘆くのは2重におかしいのです。

 わかりやすいドラマ作りを心がけ、できるだけ単純化する手法は否定しませんが、こういう道理を無視した浮世離れの戦い方をさせるのは視聴者をあまりにも小馬鹿にしていると思います。しっぺ返しを受けるのは結局NHKだと思うんですが、ね。

 戦備で慌ただしい本丸を訪れたのはお船。仙桃院からの伝言を伝えます。
「兼続さえ景勝の側にいれば心配ない」
逆でしょ、このドラマでは兼続がことごとく火をつけて回ってるじゃないですか(笑)。
この伝言を受け取った兼続は、いよいよ張り切っちゃいます。戦闘をためらう景勝に対して諌言をするわけですが、その内容が
「このいくさに義があるのかどうか、それは私にもよく分かりませぬ」。
そしてその舌の根も乾かぬ内から、
「景勝様にこの春日山城の主になって戴く事が謙信公のご遺志」「殿に託したのでございます」。
おいおい、それなら「義」は完全無欠無謬青天白日に景勝側のものでしょう。

 やっぱり分裂症と思われる兼続が真っ赤な嘘を吐きならべる最中に景虎側が攻撃を開始。景勝側も応じて出陣命令。「毘」「龍」の幟があがりました。
 と、ここでちょっと気になるのは、「龍」字旗は「懸かり乱れ龍」といって常時戦陣で掲げられたものではなく、突撃時のみの使用だったとされている事実。旗揚げの時に翻されるものではない筈です。

 はかばかしくない状況に、景虎は陣を御館に移します。ですが、先に書いたように景勝側は決してドラマのように本丸に籠城していたわけでなく、本丸を含む春日山城の大部分を支配下に置いた状況だったと小生は考えています。史料によれば5月5日に春日山城下から居多神社に至る途中の大場で戦闘が始まり、5月13日に景虎が屋敷を焼いて春日山城を脱出し、御館に拠点を移すという順番で進行します。この景虎の移動は景勝派に攻撃されたからともいい、また逆に景勝が「実城を固めていれば景虎はいずれ二の丸を去って敵対するだろう。その時は大義名分が立つから攻めれば良い」と攻撃を自重させ、焦った景虎が自分で動いたともいい、どちらとも分かりません。
 しかし、景勝側が実質的に城全体を支配下に置いた事を考えれば、景虎自身は情勢を観望していたところ景虎派の一部が決起し、景虎自身も城にはいられなくなって御館に移動して態勢を整えようと考えた、という流れではなかったでしょうか。御館は春日山城に正対した場合、直江津を背後に控えてその港湾機能を支配下に置く事ができ、また謙信の政庁として機能していた御館を押さえ、そこに住まう前関東管領上杉憲政(謙信の義父)と一体化する事によって「大義名分」を確保できます。景虎の「家督相続権」に関する主張はこの段階で始まったという事です。景勝は6月8日付の書状で「三郎取り除(退)かれ、翌日より北条の者ども近辺へ押しかけ、証人(人質)を取り、武色に及ばざるまでの仕合わせに候」と北条高広父子に申し送り、その心底を確認しようとしています。
 ドラマでは北条高広が景虎の決起の初手から加わっていましたが、これは創作で、実際の高広は当時関東の厩橋城におり、父の高定が景勝派として行動していたのですが、誤解が元で景勝に殺されてしまい、そのために高広らは景虎側につきます。関東北条氏との太いパイプも持つ高広父子の帰趨については景勝も神経を使ったようですが、それにしてもまずい事をしたものですね。

 で、初音は無視。これからも無視したいです。誰の指図も受けない信長が頬を撫でられ「鬼になりなされ」とか言われるなんて場面は金輪際見たくないです。

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2009年3月13日 (金)

【天地人】 第十回「二人の養子」

 所用により録画を観たのが今日。感想アップが遅くなりました。

 完全武装の晴家側が、「寝込みを襲われた」と兼続みずから語っていた平装の景勝主従に敗れます。そういうシチュエーションなら常識的に考えて晴家がすんなりと目的を達するか、景勝が着の身着のままで逃れて終わりでしょう。狙われている景勝がノコノコと晴家の前に姿を現すあたりは素人が考えてもおかしいです。姿を現すならそれは晴家の襲来を事前に察知していて待ち構えていた場合しかありえません。そのせいか後から遠山康光と北条高広が景虎に「晴家の夜討ち騒動は景勝側がしくんだもの」と偽り、さかんに決起をそそのかしていましたが、第三者から見ればそうとしか考えられません。まぁドラマではそうではなく、あくまで景勝は何も知らなかったという設定でしたが、その場合は晴家が命を落とした甲斐がないでしょう、景勝に怒りを煽られて単純に挙兵したなんて、完全なる腕力バカで、単なるダシじゃないですか(笑)。その直後、善後策を協議する景勝主従。景勝を捉えるショットだけ妙に手ぶれしていたのは、彼の動揺を示唆する小憎い演出でしょうか。そう思いたいですが、違うんでしょうね(笑)。ゴタゴタの末の謙信の葬儀。葬列のあの輿の中には、鎧を着せられた謙信の遺骸が収められており、城内の不識庵に運ばれて行きます。

 その夜。兼豊にそそのかされて本丸の占拠の謙信の遺金確保を決意する兼続・与七。最初はふたりだけで実行のつもり(だって兼豊さん、全然他の家臣たちと連携しろって言いませんし)で、あとから他の小姓衆が加わっただけで、途中かちあった景虎兵と戦い、まんまとクーデターを成功させてしまいました。名城・春日山城の本丸って、どれだけ手薄い警備なんでしょう(笑)。とにかく、戦国時代の合戦プロたちの緊張感とはかけ離れたドラマです。
 実際の本丸占拠は、ずっと現実的。謙信の四人の養子のひとり、上条政繁(じょうじょうまさしげ)から「謙信倒れる」と連絡が入った途端、景勝とその側近・樋口与六(のちの直江兼続)は本丸(実城)に赴き、謙信の病床に詰めます。政繁と景勝の兵が警固を厳しくし情報統制を敷いたため、景虎の行動は一日遅れ、本丸に入る事すらできません(『北越軍記』『北越軍談』)。すでにこの段階で本丸は景勝の支配下にあったのです。金蔵に蓄蔵されていた27,000両余りの軍資金や武器庫も占領済みで、このあと景勝・景虎両陣営は諸方に「自分の方が後継者だ」と宣伝にこれ務めます。
 この変事で大きな役割を果たした上条政繁は、景勝の妹を妻にしており、景虎とは相婿の関係でもありました。にもかかわらず、彼は実家である能登の畠山氏が謙信によって前年に滅ぼされており、支援勢力を持たなかったために景虎とは違って景勝のライバルとなる事もなく、景勝の側に属して働いたのです。
 そういう背景を全部無視したために、いつぞや、上条政繁を無視すると後で困るぞ、と書きましたが、やはりその結果としてこんなチンケで現実感のないクーデター劇描写になってしまいました。

 そのうえ、まんまと本丸を乗っ取っておきながら「これ以上事を荒立てたくありませぬ」と景虎説得を仙桃院に願う兼続。そんなあなた、都合良すぎ(笑)。しかもそれを仙桃院が景虎と同居しているため景虎屋敷に乗り込んでいって頼み込むなんて、ねぇ。火に油を注いで回ってるようなものです。なんでこういうバカな事を兼続にさせるかというと、「偽の遺言吹聴」「景虎の恭順を裏切る本丸乗っ取り」という「義」に反する事をした兼続を、それでもやっぱり「義」を大事にするイイ子なんだよ、と路線修正したい脚本・演出の思惑なんでしょうね、でもそれがかえっていよいよ兼続を全然感情移入できない存在にしてしまうという悪循環。こういうのを典型的な「弥縫策」といいます(^ー^;)。こういう言いくるめ方(殿のためなら、国のためなら、という)で正義を演出するというのは非常に怖い事でもあるんですけどね。

 ところで遠山康光、今日初めて気付きましたが「ガメラ」「ゼイラム」の名脇役、螢雪次朗さんが演じておられたのですね。最後、兼続に刀を抜いた景虎の後ろで微かに微笑っていた姿が印象的でした。さすが。

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