池田恒興の深慮遠謀(失敗するけど)
427年前の今日(新暦で)、池田恒興が犬山城を奪取する。
羽柴秀吉によって美濃大垣13万石に封ぜられていた池田恒興が、娘婿の森長可とともに織田信雄領の尾張犬山城を奪ったのが、天正12年(1584)3月13日(旧暦)です。
織田信雄は徳川家康と協同して秀吉に対抗すべく、北伊勢を想定戦場としていましたが、この日尾張清洲に出陣して来た家康は、犬山失陥の報を受けて慌てます。
『当代記』
「まず北伊勢へ信雄相動くべきの由にて、河内まで移らるの所、犬山の城を調略せしめ、森武蔵これを取り移るの由告げ有るにより、北伊勢への動きを延引」。
『家忠日記』にも、桑名へ出陣したが、犬山城の一件を聞いて兵を津島に返した、という記述があります。
河内は伊勢長島の地名で、信雄・家康がいかに織田家譜代の将で尾張北方にいる池田恒興を警戒していなかったかが判る状態ですね。
そのまま北伊勢に主力を展開すれば、尾張以東が無防備となるため、家康は方針を転換し、犬山南方の小牧周辺を予定戦場に変更します。
恒興は、織田信長の乳兄弟で、信長から「恒興は小身にも関わらず荒木村重の花隈城を攻め落とし、天下にその名を響かせた」(天正8年佐久間信盛宛て信長折檻状より)と絶賛されたほどに恩顧の厚い家臣でしたが、彼はなぜ信雄を見限って秀吉に味方したのでしょうか。
信雄が無能だったから、秀吉が尾張一国を恩賞として提示したから、といろいろ理由は忖度されているようですが、ここはひとつ、「恒興は、実は信雄と戦いたくなかった」と主張しておきたいと思います。
信雄・家康連合軍が北伊勢で秀吉とぶつかれば、それは互いの最前線同士のガチの戦いとなります。
恒興としては、領地をくれた秀吉には逆らえないし、さりとて信雄と正面切って戦うのも憚られる。
というわけで、とりあえず犬山を奪って信雄を北伊勢から尾張に戻し、さらにその後「三河中入」作戦を秀吉に無理矢理に認めさせて家康の領地を脅かす事により、徳川軍を撤退させ、孤立した信雄が矛を収める事を期待したのではないでしょうか。
彼の性急な行動が、それを裏付けているような気がします。
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