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2011年4月23日 (土)

池田恒興の深慮遠謀(失敗するけど)

427年前の今日(新暦で)、池田恒興が犬山城を奪取する。

羽柴秀吉によって美濃大垣13万石に封ぜられていた池田恒興が、娘婿の森長可とともに織田信雄領の尾張犬山城を奪ったのが、天正12年(1584)3月13日(旧暦)です。
織田信雄は徳川家康と協同して秀吉に対抗すべく、北伊勢を想定戦場としていましたが、この日尾張清洲に出陣して来た家康は、犬山失陥の報を受けて慌てます。

『当代記』
「まず北伊勢へ信雄相動くべきの由にて、河内まで移らるの所、犬山の城を調略せしめ、森武蔵これを取り移るの由告げ有るにより、北伊勢への動きを延引」。

『家忠日記』にも、桑名へ出陣したが、犬山城の一件を聞いて兵を津島に返した、という記述があります。
河内は伊勢長島の地名で、信雄・家康がいかに織田家譜代の将で尾張北方にいる池田恒興を警戒していなかったかが判る状態ですね。
そのまま北伊勢に主力を展開すれば、尾張以東が無防備となるため、家康は方針を転換し、犬山南方の小牧周辺を予定戦場に変更します。

恒興は、織田信長の乳兄弟で、信長から「恒興は小身にも関わらず荒木村重の花隈城を攻め落とし、天下にその名を響かせた」(天正8年佐久間信盛宛て信長折檻状より)と絶賛されたほどに恩顧の厚い家臣でしたが、彼はなぜ信雄を見限って秀吉に味方したのでしょうか。
信雄が無能だったから、秀吉が尾張一国を恩賞として提示したから、といろいろ理由は忖度されているようですが、ここはひとつ、「恒興は、実は信雄と戦いたくなかった」と主張しておきたいと思います。

信雄・家康連合軍が北伊勢で秀吉とぶつかれば、それは互いの最前線同士のガチの戦いとなります。
恒興としては、領地をくれた秀吉には逆らえないし、さりとて信雄と正面切って戦うのも憚られる。
というわけで、とりあえず犬山を奪って信雄を北伊勢から尾張に戻し、さらにその後「三河中入」作戦を秀吉に無理矢理に認めさせて家康の領地を脅かす事により、徳川軍を撤退させ、孤立した信雄が矛を収める事を期待したのではないでしょうか。
彼の性急な行動が、それを裏付けているような気がします。

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2011年4月21日 (木)

家康の突貫工事

429年前の今日(新暦で)、織田信長と徳川家康が信濃上諏訪で会同し、信長は東海道を使って安土へ帰還すると決定。

『信長公記』
「十九日、上の諏訪法花寺に御居陣」
『武徳編年集成』
「十九日、神君、甲州市川の陣営より信州に赴きたまう」。

武田討伐を終えた信長が、信濃上諏訪の法花寺に入って家康を迎えたのが、天正10年(1582)3月19日(旧暦)です。
信長は、往路は安土~岐阜~犬山~岩村~下伊那~飯田~飯嶋~高遠というルートで上諏訪に至りましたが、この道中も「我ら出馬詮なく候えども、連々関東見物望み候」と、信長自身出馬する必要は無かったけれども、以前から関東を見物したかったから、出馬したんだ、というほどの物見遊山がてらの旅で、帰路はさらに表日本にまわって富士山を眺めながら凱旋する事となりました。
無論、おそらくは駿河と国境を接する相模の北条氏政に対する示威でもあったでしょうが。

この決定を受けて、家康の家臣・松平家忠は
「十九日、上様、三河を御帰陣候わん、駿河・遠州御陣所(御茶屋、)作り候」と『家忠日記』に記しています。
即日、信長一行の便に供するための休憩所作りの指示が来て、速攻で作ってるんですね。
『武徳~』には、駿遠三の3ヶ国で道路補修・橋梁整備・宿泊休憩施設の設営がおこなわれたとあります。

今回の震災でも、大きく陥没したり崩れたりした高速道路がわずか2日で修復された様子が海外に驚きを与えているようですが、とっさの時の対応力と実行力は、今も昔も、日本人の得意技ですねぇ。

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御礼

コメントの他、twitterでのDMやメールなどいろいろ頂戴し、有り難うございます。昨日の今日でなんですが、「続けろ」というお言葉も有ったので、時間とネタのある日は「○○年前の今日」を不定期で書こうと翻意しました(笑)。

おつきあいのほど、宜しくお願い申し上げます。

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2011年4月20日 (水)

「○○年前の今日」シリーズ

なんだか最近覚えのあるネタを書いてる日がある、と感じていた本ブログの歴史日記ですが、調べると昨年の3月20日からスタートしていたので、すでに1周年とひと月が経過していました。
そりゃネタもダブルわ(笑)。

というわけで、最初はなんとなく始めたものの、どうせなら365日をコンプしてやろう、それだけの筆力が自分にあるのかを見極めてやろう、と考えて継続して来た企画も、ここで一旦ゴール(をだいぶ過ぎて気付くボンクラアスリートでしたが)とします。

あとは、諸事情によりどうしても抜けてしまった日があったと思いますので、それを埋めるくらいになるでしょうか。

お疲れ、自分。

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当たり前の話

ブログ更新。355年前の今日(新暦で)、川越藩が米・銭を貸し付けた農民に対し、酒・煙草・茶の摂取・服用を禁止。

当時の川越藩主は、「知恵伊豆」こと徳川幕府老中・松平信綱です。
藩では、寛永15年(1638)に大火が発生し、その翌年に藩主となった信綱により復興事業が進められました。
このプロジェクトは10年以上をかけてようやく完了しますが、その後新田開発・殖産興業政策を進めている真っ最中で、そんな中で当座の運転資金として米・銭を藩から貸し出された農民が、酒・煙草・茶という嗜好品を遠慮させられるのは、まぁ当たり前だったかも知れません。

転じて現在の国難の最中に、ODAをやめるな、一銭も減らさせないぞ、などとぶちあげている「超党派議員連合」がいるそうですが、借金してるのに酒や煙草を買おうという農民以上の不埒者、という他ありません。
「超党派」じゃなくて「超阿呆」か「超利権」のどちらかですね。

ちなみにこのお達しは、のちに酒・茶を禁じた幕府の「慶安御触書」の先駆けという側面もあったのではないかと思うのですが、信綱が幕政に導入する前にまず自領でテストした、というのも面白い放しですね。

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2011年4月19日 (火)

末世とは 別にはあらじ

420年前の今日(新暦で)、千利休が堺から京へ召喚命令を受ける。

『逢源斎覚書』
「二月二十六日に召しにて、京都へ罷り登り、葭屋町の宅へ着き候」。

豊臣秀吉が堺に蟄居謹慎させていた千利休に対し、京へ出頭するよう命じたのが、天正19年(1591)2月26日です。
利休はこの2日後に切腹して果てる事となりますが、その間、利休の弟子の大名たちが利休を救出するという噂がたち、秀吉の命で上杉家の将士3,000人が屋敷を包囲するという騒動となりました。

利休の死については諸説ありますが、小生としては利休が「売僧の頂上」と弾劾されたのも強弁ではなく、彼が茶道や金融を通じて諸大名に私的な人脈を築いていた事が、豊臣官僚たちを甚だしく刺激した結果だと考えていますが、それはそれとして、当時の庶民にとっては、天下人たる秀吉が、無位の「町人」に過ぎない利休相手にムキになっている事は理解に苦しむ出来事だったのは想像に難くありません。

利休が召喚命令を受けたちょうど同じ日、京では長谷川忠実という者が、都における落首を記録しています。
有名なのは、
「末世とは 別にはあらじ 木の下の さる関白を 見るにつけても」
というもので、木下藤吉郎=関白豊臣秀吉を「猿」と決めつけ、世も末だ、と断じているのは、利休失脚事件などを見ての、庶人の偽らざる感想でしょう。
もうひとつ、忠実が記録した中から。
「おしつけて 結えば結わるる 十らく(聚楽)の 都の内は 一らくもなし」
押しつけられてがんじがらめに縛り付けられた聚楽第(秀吉)体制の下、京には一つの楽も無い、という嘆きは、
中国人ビザ緩和、ODA死守、東電賠償の国民負担と、どさくさ紛れに次々と政治家たちから押しつけられつつある今の我々の嘆きでもあります。
次に来るのは、豊臣家同様の政権の崩壊ではないでしょうか。

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2011年4月18日 (月)

江戸の風邪

209年前の今日(新暦で)、徳川幕府が江戸の庶民に「風邪手当」を支給する。

昔、「江戸の疾風(かぜ)」という時代劇ドラマがありましたね(笑)。

この春、江戸では風邪が大流行していました。
正月にはたびたび火事があったようですから、空気が乾燥していた事が流行の原因でしょう。
風邪をひいてしまうと、振り売りや日雇仕事でその日その日の生活費を稼ぐ庶民は、すぐに生活が行き詰まります。
「おまんまの食い上げ」というやつですね。

そこで幕府は、
「この節、一統風邪流行いたし、その日稼ぎの者ども、別して難儀いたすべき筋につき、御憐愍の御趣意をもって、御救いの儀仰せ出され候」(『文恭公記』)
と、救済金・米の支給を決定しました。

棒手振、日雇い稼ぎの者とその扶養家族に対し、4歳以上を対象として風邪の罹患の有無にかかわらず、独身者に一律銭300文、家族には一人当たり250文を支給するという内容で、まぁ、蕎麦一杯が16文の時代ですから、大した金額ではないのですが、幕府が江戸庶民の生活を心配するというのは、ちょっと意外ですね。

で、そんな善政で株をあげた当の11代将軍・家斉さまが、4月1日に風邪ひきの仲間入りをしたのは、ご愛敬という事で。

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2011年4月17日 (日)

花は桜木

417年前の今日(新暦で)、豊臣秀吉が吉野で花見。

文禄3年(1594)2月27日(旧暦)、奈良の吉野で太閤秀吉が関白秀次らとお花見を楽しみました。
『武徳編年集成』には「武臣数十人のほか、守護の士を制せらる。諸人、その度量の広きに称嘆す」とあり、秀吉が徳川家康以下の大小名らのほかは警衛の士卒を制限したためにみながその剛胆さに驚いた、としていますが、家康側の目から見てもそうだったのですから、実際に現地ではほぼフリーパスだったようで、庶民は歓呼して一行を出迎え、吉野の満開の桜を楽しんだようですね。

そのうえ、『多聞院日記』にはその前々日に乗り込んで来た関白秀次の一行について
「関白殿、京衆召し具され御下向、(中略)上下美麗さ言慮に及ばず(中略)御供衆ことごとく金銀をちりばめたり(中略)光り渡る。三千人ほどはこれあるべきか」
と、その大人数と華麗な装いには見とれるほどだったと記録されており、吉野は桜の美しさと見物する貴顕の美しさで大変な状況となったようですね。

ただ、そんな中でも秀吉は前田玄以を通じて菊亭晴季に対し
「御公家衆にはこの五人のほかは仰せ出されず候。今度の御供は事のほか御重恩に仰せ出され候間、内々その御心得ならるべく候」
と内々に申し入れさせています。
これは、晴季のほか勧修寺晴豊、中山親綱、日野輝資、飛鳥井雅庸の5人にが特別に花見を相伴させてやるが、これは格別のご恩情だから、よく心得よ、と吉野の花見への参加を恩着せがましく許したものです。

花見といえども、公家支配の一手段だったわけで、どんなものでも政略のタネにならないものはない、というお話でした。

最後に、『多聞院日記』には24日に
「太閤御下りにつき、諸方掃除これあり。(中略)諸方震動なり」
という記述があります。
VIP来訪に先駆け、奈良では大慌てで大掃除がおこなわれたのですが、これって今でも、「社長が事務所や工場を回るから掃除を」「首相が避難所を視察するから掃除を」と、百年一日のごとく繰り返されていますね。
不都合な景色を隠した後での視察など何の意味も無く、それで満足して仕事をした気になっている社長さんや総理さんの無能さたるや、目を覆いたくなるものがありますが、例えば中国なんかは、五輪や万博の際に町ごと消すほどの勢いで「掃除」をしてましたね。
アメリカなんかはしなさそうだなぁ、フランスも。
イタリアなんか、絶対やりませんよね(笑)。

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2011年4月16日 (土)

ふたりの初姫

381年前の今日(新暦で)、初姫死去。数え29歳。

徳川2代将軍の四女・初姫が亡くなったのが、寛永7年(1630)3月4日(旧暦)です。
秀忠の正室・お江さんの娘・初姫は、お江の姉で京極高次正室の常高院が秀忠の父・家康に願って貰い受け、4年後に、高次の跡取り・忠高の正室としました。
忠高は側室の産んだ子で、常高院とは血のつながりがありません。
その忠高に、常高院は自分の名・初をつけた姪っ子をめあわせた訳で、彼女がいかに京極家に自分の血筋を遺したかったかがうかがわれます。

しかし、『本光国師日記』に「戌刻、若狭の姫君様御遠行」とあるように、常高院の願いも空しく初姫様はこの日の夜に若い身空で息を引き取ったのでした。

『京極丸亀家譜』は「秀忠公より(中略)八木一万俵を賜り、武州伝通院において仏事執行」と記し、秀忠から葬儀費用として米1万俵が支給された事がわかります。

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2011年4月15日 (金)

「ドイる」

396年前の今日(新暦で)、土井利勝が駿府に派遣され、徳川家康と密談。

徳川2代将軍・秀忠が、腹心の土井利勝を駿府の大御所・家康のもとに派遣したのが、慶長20年(元和元年=1615)3月18日(旧暦)です。
言うまでもなくその内容は、大坂の豊臣氏討伐の作戦再興についてでしょうが、すぐ翌月に夏の陣が始まるわけですから、その打ち合わせも相当頻繁かつ綿密におこなわれたのでしょう。
秀忠・家康の連絡担当となった利勝は、
「たびたびの尊書拝見、かたじけなく存じ奉り候。拙者儀、この中うち続き駿府へ御使に参り、江戸にて右の御状ども拝見致さず候ゆえ、度々に御報申し上げず候」
と、出張続きであなたからの手紙を見られず、御返事できなかった、と本多忠政宛てに無礼を詫びています。

今なら携帯メールでいつでもどこでも連絡できたのに、という問題ではありませんが、トップシークレットのハードな重要案件に携わってへとへとになってぼやいている感じの利勝の手紙は面白いです。
「エダる」こと枝野官房長官の、抜群の体力と精神力を以てしてであれば、ちょろいミッションかも知れませんが(笑)。

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2011年4月14日 (木)

雑誌『一個人』ブログ

ブログ更新しました。

「秀吉の選挙公約」。

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君の城は俺のもの、俺の城は俺のもの

424年前の今日(新暦で)、豊臣秀吉、備前岡山に宿営する。

「急度筆を染め候。今日六、備前岡山に着陣候。早々そのおもてへ打ち越すべく候条、その意をなすべく候なり」
これは毛利輝元の補佐役・小早川隆景に宛てた朱印状で、「急いで書くぞ。今日6日、岡山に着いた。すぐにそちらに進軍したいから、そのつもりでいろ」という内容です。

九州征伐に赴く途上の秀吉が、岡山に到着したのが天正15年(1587)3月6日(旧暦)で、その日、すでに九州で滞陣している隆景に書状を発したのです。
しかしながら、秀吉はすぐには西進せず、ここで4日間滞在する事になりました。
おそらく、その理由と思われるのが、これ。
「輝元持ち分の国のうち、道筋の城お預かりなされ、御番衆入れ置かれ候」(『毛利家記』)。

秀吉は、毛利家の領国を通る際にそのルートの城をすべて毛利家から一時召し上げ、自分の兵を入れて身の安全を図ったのですが、その実施と確認にに若干の時間を要したのでしょう。

豪放磊落に見える秀吉も、このあたりかなり神経質で保身的です。
ちなみに、秀吉が採ったこの「城の一時的占有権」発動、のちに徳川家康が関ヶ原の戦いに向かう際に山内一豊の発議によって東海道筋の城に適用される事となりました。

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2011年4月12日 (火)

永眠の場所

354年前の今日(新暦で)、明暦の大火の犠牲者たちが葬られる。

この年1月18日(旧暦)、丸山本妙寺から出火した火は、おりからの激しい北西風にあおられて一瞬のうちに数十町に拡がり、駿河台・鎌倉河岸を呑み込んだあと、西風に変わると今度は伝馬町などに燃え移りました。
翌日、今度は小石川や麹町でも火事が発生、合わせて風向きが北風に転じたために、ついには江戸城本丸はじめ江戸はほとんど丸焼けの状態となります。
世にいう「明暦の大火(振り袖火事)」です。
運良く火を遁れた者も、寒気厳しい中、多くが凍死し、炊き出しを受けるにも茶碗も皿も無いため、焼けた瓦に粥をよそってもらったそうです。

諸説あるものの、3万から10万人が亡くなったとされるこの大災害からひと月あまり、明暦3年(1657)2月29日(旧暦)、徳川幕府の重鎮・保科正之(当時の将軍・家綱の叔父)が主導し、本所牛島新田に被災者の遺体を集め、埋葬して塚(万人塚)を建てました。
これが両国の回向院のはじまりです。

それから354年経ち、東日本大震災からも一ヶ月。
現在も多くの犠牲者のご遺体が見つからず、日本全体が胸を締めつけられる思いでおりますが、一刻も早く御魂が安静の場を得て回向されますよう、願うばかりです。

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2011年4月11日 (月)

自宅待機命令

327年前の今日(新暦で)、徳川幕府が雁間(かりのま)詰め諸大名に対し初めて半年交替の領国滞在許可を与える。

『徳川実紀』
「酒井河内守忠挙はじめ雁間詰の輩に、初めて半年更替の暇仰せ出され、暇給う者十一人」。

雁間は白書院と黒書院の間に位置し、江戸城において城持ちで比較的小身代(10万石以下)の譜代大名の控えの間として使われました。
つまり、幕府の実務を担う老中や若年寄を輩出する人材の「サロン」で、決められた日にのみ登城する他の間の大名たちとは異なり、毎日登城するのが基本です。

それでも、幕府成立80年以上も経つと、それなりにルーチンが多くなり政務繁多も解消されたのか、この日半年ごとの参勤交代制への移行が宣言されたのでした。

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まさに茶湯御政道

414年前の今日(新暦で)、豊臣秀吉が伏見城で茶会。

『宗湛日記』
「太閤様御会、御城」。
博多の豪商・神谷宗湛らが茶会の客として招かれ、秀吉の茶会に出席したのが慶長2年(1597)2月24日(旧暦)です。

柿渋を塗った紙衣の上下に繻子の頭巾という出で立ちの秀吉は、濃茶と薄茶の間の移動の際に「博多の者どもに城の内見せよ」と、城内を見せました。
至って平和な茶の湯遊びのようですが、実はこの前日、宗湛は山口宗永に夕食をお呼ばれしています。
宗永は小早川秀秋の補佐役として秀吉から送り込まれた人物で、その席で宗永は宗湛に対し
「明日、殿下(秀吉)の御前で筑前国の事を下問されたら、これはこう、あれはああ、と言上して欲しい」
と頼み込まれた、と宗湛は記しています。

どうもこの秀秋は、関ヶ原前後だけでなくそれ以前から評判がすこぶる悪く、この時も彼の不行跡が秀吉にバレる事を怖れた宗永が、宗湛に口裏合わせを依頼したのですね。
宗永は、これだけでなく宗湛の茶会向けに毛氈や提灯、三人の小姓までサービスして懐柔に務めています。

表面的にはなにげない遊びの場でも、その裏では政治的な思惑が飛び交い、ストレスで胃に穴が開きそうな思いをする人がいたのですねぇ。

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大坂城を作ったのは?豊臣秀吉じゃなくて大工。

396年前の今日(新暦で)、板倉勝重が徳川家康に大坂城の戦備状況を報告。

慶長20年(元和元年、1615)3月12日、徳川幕府京都所司代の板倉勝重が、駿府の家康に
「大坂の様子、この間、人を付け置き申し候処、昨日罷り帰り申すは、米・材木ともに、去年よりも多く集め、船場に積み置き申す由に候」「前かど籠城つかまつり候者の内、扶持放し候と申す者、侍分の者は一人も散り申さず候」(後藤庄三郎宛勝重書状)
と報告をおこないました。
『大坂御陣覚書』によれば、このほか大坂城から毎夜100人・200人という人数が京に繰り出し、乱暴狼藉を働いている、と報告された様です。

京における乱暴狼藉というのは、まぁ血の気の多い下級武士たちが憂さ晴らしに遊んでトラブルを起こしているのは大げさに言ったものだと思いますが、後藤宛てに兵糧や資材の集積や牢人衆の雇用継続の様子をレポしているあたりと合わせ、畿内の治安が至って悪くなっている事は明らかです。

翌月にも勝重は大坂城では牢人たちに金銀を配り、武器の用意を進めている、と家康に報告しています(『駿府記』)が、『北川遺書記』にはその報告を受けた家康が機嫌を悪くした、と伝え聞いた大坂方では、武器の制作を禁止し、監視係まで設けて違反者を刑殺するとして、和歌や連歌、茶の湯などをもっぱらとするよう指導したとあります。

総堀と外郭を失い本丸のみとなった裸城の大坂城に拠る豊臣家としては、もはや抵抗する足場を失い、なんとか徳川幕府との決裂を避けたい一心だったでしょうから、急進派が武器の手配をするのを禁じて穏健な態度を見せようと努力したのでしょうが、牢人衆に金銀を配った事、京へ繰り出すのを黙認した事など、ひねって考えればそれだけ豊臣家の統制力が弱まっていたとも考えられ、急進的な下級牢人たちに突き上げられついにはのっぴきならない事態にまで至ってしまう事を考えれば、なんとももの悲しいですね。

大坂城を滅ぼしたのは?徳川家康じゃなくて牢人たち。

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2011年4月 8日 (金)

あちらを立ててこちらも立てる

405年前の今日(新暦で)、江戸城改修開始。

徳川家康が江戸幕府を開いて3年、天下人の城として江戸城を「天下普請」で大改修する工事の準備が始まったとされるのが、慶長11年(1606)3月1日(旧暦)です。

『武徳編年集成』
「慶長十一年三月朔日、江城経始」。

この工事の縄張(設計)は藤堂高虎が担当した、とはよく知られるところですが、同書には高虎の担当は二ノ丸・三ノ丸の設計だったとあります。
『慶長軍記』によれば、本丸を拡張しようと家康が言うと、高虎は「本丸は狭い方が良いのです」と答えるので、では二ノ丸・三ノ丸を改変して拡張しよう(「二三は縄張り変わりける」)という事になり、それを言い出しっぺの高虎に任せた、という経緯だったようです。
基本構想を盛り込んだ設計図を持って高虎が駿府の家康を訪ね、上申すると、家康はみずから図に朱を入れ、「将軍に見せよ」と指示しました。
高虎は設計図を抱えて、今度は江戸へ。
そうして将軍の秀忠に図面を見せて決裁を得、GOサインが出された、と『玉置覚書』に書かれていますが、駿府と江戸を、絵図面を抱えて行き来する高虎の姿はなんだか面白いですね。
こまめに動き回ってプロジェクトを能動的に進める有能なサラリーマン、という感じでしょうか。

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或る江戸人の死

143年前の今日(新暦で)、川路聖謨死去。数え68歳。

以前の記事で健脚を自慢していた聖謨さんが亡くなったのが、明治元年(1868)3月15日(旧暦)です。

幕末、徳川幕府の外国奉行などを務めた聖謨は、前回も書いたように謹直な真面目官僚で、健脚を活かしてよく任地と江戸を往復し、、安政元年から2年の年末年始に下田から江戸に戻る際には、小田原あたりの雲助たちが「あのお武家は良く旅をする人だ。元旦から箱根越えをしているくらいだから、今年も何度も行き来する事だろう」と噂したそうです。

また思いやり深い性格でもあり、あるとき旅の途中で雨に遭い、木の下で家来に長柄傘をさしかけさせて握り飯を食い、彼が飲む湯を運ぶ家来は茶碗に自分の笠をかぶせ、自分はずぶ濡れになっていると感謝し、奉行の自分の家来でさえこんな大変な思いをしているのだから、その陪臣や庶民などの苦労は大変なものだ、と思いを馳せて、苦労知らずの自分の子たちにも肝に銘じさせなければ、バチが当たって落ちぶれてしまうだろう、「人の苦労をただ取る」者には天罰が下るのだ、と自戒しています。

そんな聖謨は、江戸開城の当日に自決しますが、辞世の句には
「徳川家譜代之陪臣
  川路頑民斎聖謨
  敬斎を頑民斎と改めて」と頭書しました。
自分は天皇から見れば徳川の家臣という事で陪臣だが、陪臣には陪臣の意地と忠義の道がある、新しい世に生きる事は拒否する、という強い意志が感じられる文章ですが、一方でかつて自戒したように陪臣・下々の苦労を忘れるな、というメッセージも籠められていたのではないでしょうか。
続く辞世は「天津神に 背くもよかり 蕨つみ 飢えにし人の 昔思えば」というもので、中国の故事にちなみ自分を天皇という権力者の世を拒絶し餓死した聖人に喩えるものでした。

かつて水戸の徳川斉昭から「我が国の 千島の果ては 得も知らぬ さりとて余所に君は取らすな」と歌を贈られた聖謨は、「誰余所に 取らすべきやは 我が国の 千島と君が 教え仰ぎて」と返しました。
千島列島がロシアなどに捕られないように、という悲壮な覚悟は、世襲批判の教えとともに竹島や尖閣諸島の問題に全く無力な政治家たちに突きつけてやりたいものです。

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毛利元就の十八番(オハコ)

459年前の今日(新暦で)、小早川隆景が平賀広相(ひろすけ)と兄弟の盟約を結ぶ。

「仰せ御旨蒙るにより、兄弟契約の儀(中略)、互いに疎意存ずべからず候」(『平賀九郎兵衛共昌家証文』)。

平賀新九郎広相は、大内氏から押しつけられて養子入りして来た隆保に対し、大内氏が陶晴賢の乱で滅亡した機会を逃さず打倒し、平賀の家督を獲得しましたが、その裏で援助していたのが毛利元就です。
平賀家は沼田・竹原を本拠とする小早川家と毛利本家を結ぶ回廊上に位置する白山城などの主だったため、元就としては重要な場所でした。
このため、その内紛に介入して自分のコントロール下に置く、という小早川・吉川両家の取り込みと同じ手法が用いられたわけですが、平賀家の場合は毛利家の人間が養子に入るという事は無く、代わりに隆景と義兄弟の契りを交わすという方法が採られています。

それにしても、内紛を利用して巧みに自分の勢力を浸透させて行く元就のやり方は、不気味ですらありますね。

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2011年4月 5日 (火)

滅びる2世

374年前の今日(新暦で)、本多正純死去。数え73歳。

『鳩巣小説』の中で室鳩巣は正信が徳川家康に対して「跡取りは三男の秀忠様こそ」と推したのに対し、正純は「順番から言って次男の結城秀康様こそ」と反対したとしていますが、大体、正純は関ヶ原合戦に遅参した秀忠を庇うために父・正信を処罰して欲しいと主張したほどの秀忠派でしたし、後継問題についても正信は秀康を推し、大久保忠隣が秀忠を推した筈ですから、この説はおかしいですね。
正純の失脚の理由を憶測した虚説でしょう。

同書はさらに「佐渡守は智謀の深き人なれども、嫌なる人なり。上野介殿はその子なれども、父には似ぬ人なり」と、正純は父・正信とは違った、と評しています。
正信は政略・陰謀の人でしたが、正純はそういう策略を弄さない人柄だった、という意味でしょうか。
まぁ、良く言えば人格者ですが、悪く言えば苦労知らずの坊ちゃん育ちで周囲への気配り・心配りが苦手、思った事をそのまま実行するエリートだったのではないでしょうか。
そういう人間は、某元首相の息子で歯に衣着せず「ああ言えばこう言う」的政府批判を繰り返すだけの政党のカンバン的国会議員あたりに類例が見られそうです。

こういう人は、順調な時は良いのですが、少しつまずくと周囲のハイエナたちに陥れられ、あっという間に権力の座からたたき落とされてしまいます。
自分を重用してくれた家康が死に、その後継者・秀忠と若手幕閣が権力を握ると、自己保身の根回しなどとは縁の無かった正純は邪魔者として排斥され、出羽の由利郡に流罪となります。

7年前には息子の正勝に先立たれた正純が、失意のままに横手で世を去ったのが、寛永14年(1637)3月10日(旧暦)でした。

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2011年4月 4日 (月)

桜吹雪と鬼

171年前の今日(新暦で)、遠山景元が江戸北町奉行に任命される。

『慎徳公記』
「勘定奉行遠山左衛門尉、町奉行となる」。

ご存知、遠山の金さんこと遠山金四郎が北町奉行となったのが、天保11年(1840)4月4日(旧暦)です。

美濃明知を本拠地とした遠山家の人間だった景元は、その父も優秀な官僚で、自身も早くからその手腕に期待をかけられるやり手だったようで、町奉行の次席にあたる勘定奉行から、順当な出世を遂げました。

文久二年版の尾張屋「本所深川絵図」を見ると、徳右衛門町二丁目と菊川町二丁目の交点に、東西に長い「遠山金四郎屋敷」が見えます。
現在でいうと、都営新宿線菊川駅の真ん前。

妾腹の子で、若い頃はグレて放蕩無頼の生活を送ったところなど、「鬼平」こと火付盗賊改方頭・長谷川平蔵と共通するところがある金さんですが、屋敷も、役宅(官僚の公邸)とはいえ所管違いの平蔵の旧宅跡に住むとは、何か縁があったのでしょうか。

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2011年4月 3日 (日)

ダンス内裏苑

398年前の今日(新暦で)、禁中において歌舞伎見物。

『時慶卿記』に「禁中には、かぶきおどりあり、内々衆ばかり召し寄せらる」とあるように、、内裏で歌舞伎踊りが開催され、後水尾天皇とその身辺の方のみが御見物になりました。
2日前に御霊神社で開催された歌舞伎踊りの一座を、かしこきあたりも御覧になりたいと言う事で禁中に招いたものでしょう。

『時慶卿記』の原文には「カブキ跳」と文字が当てられており、現代の歌舞伎と違う、文字通り「跳躍」するような荒々しい「傾奇踊り」がやんごとない方々の前で披露されたという情景が非常に面白いですね。
戦国の余風いまだ収まらない慶長18年(1613)2月13日(旧暦)の出来事でした。

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2011年4月 2日 (土)

三木の干殺し、綾部のサボり殺し

383年前の今日(新暦で)、別所吉治が改易に処される。

丹波綾部2万石、別所吉治が徳川幕府により領地召し上げを言い渡されたのが、寛永5年(1628)2月28日(旧暦)です。

『廃絶録』吉治数年やまいと称し、鷹野・川狩り等をもっぱらとし、参勤怠りし落ち度により改易
『徳川除封録』病と称し酒色遊蕩にふけり、朝勤を怠るをもって除封
『寛政重修諸家譜』所労ありと称して、久しく参府せず、封地に在りて遊猟をのみ事とする由、御聴に達せしかば、御気色蒙り改易せらる

諸書いずれも吉治の参勤サボタージュを理由としていまして、実際はどうなのかについては諸説あるようですが、まぁこういう事実もあったのでしょうね(笑)。
何にしても、豊臣恩顧の大名の整理を進めていた幕府につけいられるような隙を見せてはダメです。
そもそも彼の諱の「吉治」が、秀吉に仕えた時代に「吉」の字を拝領したものなのでしょうから。
ガードが甘いのは致命傷でしたね。

吉治は豊臣秀吉の「兵糧攻め」によって攻め落とされた三木城の別所長治の従兄弟(実は長治の子という説も)ですが、信長・秀吉に抵抗して歴史に名を残した長治に比べ、自らの所行で城池を失った吉治は、ある意味愛すべき生身の人間だったのかも知れません。

それにしても、仮病で江戸に参勤せず、領地で遊んでいたとは、元祖「ヒッキー」君とも言えそうな人物だったのでした。

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2011年4月 1日 (金)

『一個人』

そう、告知つながりで、2件。

忘れてましたが前月の『一個人』(KKベストセラーズ)「博物館」特集号、戦国武将がらみの博物館紹介記事は、ノンクレでしたが小生が書かせて戴いております。

という事で、そのKKベストセラーズさんの『一個人ブログ』で、新たに昨日から連載を開始しましたので、どうぞご覧下さい。
不定期ながら隔週以上では更新して行きたいと思っております!

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茶器>息子

404年前の今日(新暦で)、松平忠吉死去。数え28歳。

徳川家康の四男、忠吉が亡くなったのが、慶長12年(1607)3月5日(旧暦)です。
参勤中の江戸で発病、一時小康状態となった忠吉は、領国の尾張へ戻ろうと出立したものの、すぐに重態に陥り、芝で世を去りました。
『慶長日記』には「瘡毒を煩」とあり、おそらく梅毒だったのでしょう。
一説には関ヶ原合戦での負傷が元とも言いますが、それは舅で後見人だった井伊直政の話と混同したのではないでしょうか。
『明良洪範』には、かつて忠吉が「下野守の武家官途名を拝受してから腫瘍の病気は頻発しますので、他に変えたい」と家康に願い、「美濃守か尾張守にせよ」と言われると、「身の終わりに通じますので、嫌です」とごね、「面倒なヤツじゃ、好きな名にせい」と突き放されて「薩摩守」にした、というエピソードが紹介されていますが、何度も腫瘍の発症と潜伏を繰り返し、最終的には死に至るという経緯は、まさに梅毒のそれです。

忠吉は徳川2代将軍・秀忠の同母弟でもあり、家康はさぞかし嘆き悲しんだかと思いきや、『当代記』などは「以前から忠吉の病状は知っていたし、最後に面談もできたから、全然悲しまれるそぶりはなかった」とし、天海大僧正が仰天したほどに家康はドライだったと記しています。
なにせ、前月末に放鷹に出て、茶器がことごとく紛失したのを怒り、3月9日になって忠吉死去の報が届いた時にも「茶具あい失うにつき、大御所御逆鱗の間、これを申さず」と、息子の死の報告が遅れても怒らずに「そうか」で済ませたそうですから、忠吉の命は茶器よりも軽いのか、とビックリします。
たしかに、名古屋で今に残る忠吉の墓(性高院)はビルの上階に設けられた墓地にひっそりとあり、その目だたなさは気の毒なくらいで、家康のドライさがはるか後世にも目に見える形で現れている感じです。

その後も忠吉の松平家は冷遇され、改易となって跡は家康九男の義直が継ぎますが、この時義直はわずかに8歳。
そもそも、尾張は大坂の豊臣家に対する東海道筋の最前線で、忠吉は舅の井伊直政の彦根とともに大坂城包囲網を形成する重要な役割を任せられていたのですが、その後を小児が担えるのでしょうか。
『尾張敬公事蹟』には、福島正則から清洲城は水害に弱いから他に城を移したらどうでしょうか、と勧められたが、忠吉は「西国の大名が謀反すれば、自分はこの城を討って出て戦うつもりだ。城などどんなものでも良い」と答えたという逸話が載っていますが、関ヶ原でも猪突して先駆けを果たした忠吉としては充分ありそうな話です。
ところが、これが家康の大方針と矛盾したのではないでしょうか。
義直を忠吉の後の尾張国主に据えた家康は、清洲城を廃して名古屋城を築きますが、その構造はすさまじいほどの防衛重視思想の固まりとなります。

家康という人物の手堅さの現れ、というよりも、この段階での西国大名・豊臣家に対する家康の基本戦略は、まだ専守防衛路線だったと言えるのではないでしょうか。

好戦的でコントロールが効かなくなる怖れのある忠吉が死んだのは、家康にとってこの戦略を遵守する形に陣営を再構築するのに絶好の機会だったのかも知れません。

『新著聞集』には、ある時忠吉が、子が生まれた家臣に対し「どうだ、子は可愛かろう」と何度も尋ねても「いえ、可愛くありませぬ」と、子よりも奉公が大事だとアピールするので、「自分の子も可愛く思わないよこしまな心でどうやって忠義を尽くすというのだ」とクビにしてしまった、という話が残っています。
それほどに親子の情を重視した忠吉ですが、父親の家康は父子の情よりも茶器や政戦略を優先した、というのはなんとも哀しい話ではあります。

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