『名城物語 第3号 家康の城』
標題のムックが(株)学習研究社様から発売となっております。
小生も少し書かせて戴いておりますので、宜しくお願いします。
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18日は曇天の下、大阪城へ。
↑「風雲!大阪城」的画像にて。
エッゲンベルク城で2006年に確認された「豊臣期大坂図屏風」の特別展を、ようやく観る事ができました。
小学生の遠足団体や大陸の人たちがうるさい中でしたが、3Fで展示されていた当該のブツには、あまりそういう連中は興味も無く通り過ぎるので、ゆっくり静かに観られてラッキー(笑)。
それにしても見事のひと言です。先日BSでこの図屏風の紹介番組を観た折りも人々の生き生きとした動きに見入りましたが、複製とはいえ現物大のものを観るとその思いも新たになります。特に、http://www.osakacastle.net/exhibition/special.html#osakazuで観られる図屏風の一部の中央右寄り下、極楽橋は、秀吉死後に奉行たちが二階の望楼で打ち合わせをした事もあるとの事で、その窓を思わず覗き込んでみたり。
現在の極楽橋。位置も様子も変わっています。
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今、北摂では大山崎町歴史資料館、しろあと歴史館、吹田市立博物館の3館共同企画として特別展「北摂の戦国時代」を開催中です。そのうち、高槻と吹田の展示を見て来ました。
まずは高槻市のしろあと歴史館へ。
こちらでの展示は「北摂の戦国時代 高山右近」です。
高山右近関連の史料のほか、織田信長が桶狭間で今川義元を討った際の戦利品「義元左文字」も見る事ができました。梅林寺所蔵の有名な中川清秀の肖像もあったのですが、なんとも油断のならない狷介な目元と、上品なおちょぼ口のギャップが印象的。頭部と比較して体がかなり大きく描かれており、戦国武将らしいたくましさも感じますね。
その梅林寺から出土したと伝わる茨木城の丸瓦も面白く、「天文十年」「瓦の数一万二千」「大工ちよまつ」「河内国」という内容が刻まれています。北摂は瓦の産地としても知られたところですが、河内の大工が瓦も焼いた?「大工」は当時瓦職人も含む?供給が追いつかず河内からも職人が参集していた?興味は尽きません。
残念だったのは、現地で見た松永久秀奉納と伝わる「葡萄日月硯」の精緻で見事な浮き彫りが、図録に収録された写真ではボケボケで全くその面影を残していなかった事。おそらく広角系の絞り値の小さいレンズでそのまま撮ったのか、一部にしかピントが合っていません。よくこんな写真使ったな、というレベルです。
館を出て次に向かったのは、同市内の上宮天満宮。
こちらの境内の一隅には、
「山崎合戦秀吉本陣跡」の石碑があります。
元々は天満宮の麓の平地にあったものが、わりと最近にこちらに移されたそうです。
天正10年(1582)、本能寺の変を知って中国攻めから反転した秀吉軍は、西国街道を東進して山崎の手前のこの地で陣をとどめ、明智軍との決戦に備えました。
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薩摩藩蔵屋敷跡の一筋南、花乃井中学北東隅の此花乃井(このはなのい)跡。
石見津和野藩蔵屋敷跡です。
「此(乃)花」は、古今和歌集に「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」と歌われた仁徳天皇の御代の繁栄を願い言祝ぐ和歌以来、大阪の代名詞ともなりました。国際花と緑の博覧会(花博)では「咲くやこの花館」というパビリオン名にも使われ、今も同館は営業しています。ちなみにコノハナサクヤ姫とは無関係。あちらは「木の花」。
此乃花井は名水として知られ、明治になってから明治天皇に命名されたそうです。
土佐堀通りに戻り、薩摩藩蔵屋敷跡から東へ1ブロック。
南側に「大村益次郎寓地跡」碑。
益次郎が村田蔵六と名乗っていた青年時代、緒方洪庵の適塾塾頭を務めていた頃に彼が一時寄寓していた倉敷屋作右衛門の屋敷跡です。倉敷屋作右衛門家は、この時代の少し前に俳人の七五三長斎(しめちょうさい)公済を出した船宿の倉敷屋(倉舗屋)作右衛門家でしょうか。そうだと思いますが、専門外ですので自信はありません。当たっていれば、やはり学問・文化に熱心な富商だったのでしょうね。
4筋下って、靱公園の北縁に出ると、「関西法律学校発祥の地」の碑。
私の母校・関西大学の発祥地ですね~、今や高橋大輔くんで有名ですが。
1886年、この地の願宗寺に設立された関西法律学校。わずかひと月で移転しますが、その後の発展は誰もが知る通りです。
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ふたたび堂島川南岸を西へ。
リーガロイヤルホテルの前庭にある「蔵屋敷跡」碑は、
讃岐高松藩の蔵屋敷跡の標です。
さらに西へ、大阪国際会議場の裏庭には「近代製紙業発祥地」碑。
土佐の後藤象二郎らが肥後熊本藩蔵屋敷跡に作った製紙工場跡です。
国際会議場からあみだ筋を南へ。
土佐堀橋を渡って土佐堀川南詰の三井倉庫敷地の西面。
大阪上級裁判所跡の小さな説明板があります。
道頓堀から1876年に薩摩藩蔵屋敷跡へ移転したものです。
その南、交差点の対面には「宮武外骨ゆかりの地」の碑。
明治の大ジャーナリスト・外骨が上等裁判所(当時は「大阪控訴院」と改称)のすぐ隣に住んでいたというのは面白いですね。腐敗政治を批判したびたび投獄された外骨、裁判所からの呼び出しにもすぐ応じられた「お隣さん」だった訳です。って、その頃まだここに裁判所って有ったのかな…。
三井倉庫の敷地に戻って、社屋東南隅に進むと
「薩摩藩蔵屋敷跡」碑。
当時薩摩藩の大阪における上蔵屋敷の跡です。
鳥羽伏見の戦いの際に幕府側からの明け渡し要求を拒否、
自ら火をつけて灰燼に帰せしめた「武士の一分」発露の場所です。
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玉江橋を渡って対岸、つまりかつて蛸の松があった久留米藩と広島藩の蔵屋敷の境界辺の川辺には、大阪大倉商業学校跡と大阪府師範学校跡の碑。
大阪大倉商業学校はこの地の市立大阪商業高校の敷地内に仮設されていたそうです。
この大阪大倉商業学校は現在の関西大倉学園。ちなみに東京の大倉商業学校は現在の東京経済大学です。創立者は大倉財閥の創業者・大倉喜八郎。越後の鉄砲商人から維新の混乱に乗じて戊辰戦争で大もうけして財をなし、帝国ホテルも彼が築きました(ホテルオークラは息子の代)。死の商人あがりなだけに、名誉も欲しかったんでしょうか。
大阪府師範学校の碑の方は、側面に当時の学生たちが蛸の松を友として学んだ、と刻まれています。この地にあった学校が上本町に移転するのは1878年で、廃校となった官立大阪師範学校の跡地への引っ越しでした。その2年前まで、官立大阪師範学校にはアノ秋山好古も学んでいたのです。今年末から始まるNHK「坂の上の雲」の主人公・秋山真之の兄、陸軍大将にして「日本騎兵の父」ですね~。
そこから東に少し戻ると、ダイビルがあります。
なんとも風情のあるレトロなたたずまいです。
が、http://sankei.jp.msn.com/economy/business/091026/biz0910262131016-n1.htmによれば間もなく解体が始まり、建て替えの後は低層部で今の外観を再現するそうです。
オリジナルを見られるのは今の内ですよ~。
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